研究者の声:オピニオン



2026年11月8日更新

掲載誌で研究者を評価することの限界

ライフサイエンスの世界には、「Cell、Nature、Scienceのいずれか(以下CNS)に筆頭か責任著者として論文を出していなければ、研究者として一流とは言えない」という空気が根強く存在する。研究室の飲み会でも、公募の噂話でも、学会の廊下でも、この基準は半ば常識のように語られる。

本稿では、この考え方が妥当かどうかを、いくつかの調査結果をもとに検討したい。結論から言えば、筆者はこの考え方に同意しない。ただし、CNSという雑誌そのものを否定するつもりはない。これらの雑誌には分野の転換点となった論文が数多く掲載されてきたし、編集部と査読者の多くは誠実に仕事をしている。問題にしたいのは雑誌ではなく、「どの雑誌に載ったか」を研究者の価値の代理指標として用いる慣行である。以下では、この慣行が科学の信頼性、研究室の人間関係、研究の独創性、そして人の評価にどのような影響を及ぼしているかを順に見ていく。

■ 掲載は正しさを保証しない

まず確認しておきたいのは、CNSへの掲載はその論文の結論が正しいことを保証しない、という当たり前の事実である。査読は提出されたデータが論理的に主張を支えているかを確かめる仕組みであり、データが本物かどうか、別の研究室で同じ結果が出るかどうかを確かめる仕組みではない。

実際、高名な雑誌でも捏造・改ざんは繰り返し起きている。Scienceに掲載されたヒトES細胞に関する黄禹錫(ファン・ウソク)氏らの論文、2014年1月にNatureに掲載され、同年7月に撤回されたSTAP細胞の論文は、日本の研究者にとっても記憶に新しい。これらは例外的な事件として片付けられがちだが、統計的な分析は別の様相を示している。FangとCasadevallは2011年、17誌を対象とした分析で、雑誌のインパクトファクターと論文の撤回率の間に強い正の相関があることを報告した。続く2012年の分析では、生命科学分野の撤回論文2,047本のうち、誤りによるものは約2割にとどまり、約3分の2は捏造・盗用・重複出版などの不正行為によるものだった。注目度の高い雑誌ほど読者の目が多く不正が発見されやすい、という解釈も成り立つが、少なくとも「一流誌に載ったから信頼できる」という前提は支持されない。

再現性の問題はさらに広範である。製薬企業アムジェンの研究者らは2012年、がん研究の「画期的」とされた53本の論文のうち、社内で結果を再現できたのは6本にとどまったとNature誌上で報告した。バイエル社も前年に、67件の創薬標的の検証プロジェクトのうち、論文と社内の結果が一致したのは2〜3割であったと報告している。非営利団体が主導した「がん生物学再現性プロジェクト」は、2010〜2012年に注目度の高い雑誌に載った53本の論文から実験を選んで追試し、2021年に結果を報告した。陽性結果の効果量は、中央値で元論文より85%小さかった。しかも、元論文の方法の記載だけで追試の手順を組めた実験は一つもなく、最終的に追試できたのは23本の論文の50実験にとどまった。

ここで注意したいのは、再現できない論文の大半は捏造ではないという点だ。小さなサンプルサイズ、都合のよいデータの選択、過度にきれいな「代表的な画像」。こうした小さな無理は、強い主張と明快な物語を求める雑誌でこそ積み重なりやすい。掲載の品質と掲載された知見の堅牢さは、別の物差しで測らなければならない。

■ 目的と手段の逆転

研究の目的は、本来、自然についてまだ知られていないことを明らかにすることであり、論文はその結果を社会と共有するための手段である。ところが「CNSに通すこと」そのものが評価の中心に置かれると、手段が目的に入れ替わる。

その兆候は、研究の進め方に現れる。問いを立てる段階から「これはCNS向きの話題か」が優先され、流行している分野や手法にテーマが寄っていく。実験の途中で仮説と合わないデータが出ても、それを新しい問いの入り口としてではなく、「物語を崩すノイズ」として扱う誘惑が生じる。査読者に求められた追加実験に何年もを費やし、その間に得られた知見が専門誌であればとうに公開できていた、という例も珍しくない。いわゆる「雑誌の格下げ」を繰り返すうちに、一つの論文が日の目を見るまでに数年かかることもある。

この過程で失われるのは時間だけではない。否定的結果や地道な追試、標準的な手法の丁寧な検証といった、分野の土台を支える仕事は「ハイインパクトにならない」という理由で後回しにされる。その結果、先に述べた再現性の問題が放置され、後続の研究者が誤った前提の上に研究を積み上げてしまう。研究費の多くが公的資金であることを考えれば、これは個々の研究室の問題にとどまらない。

もちろん、CNSを目指すこと自体が悪いわけではない。優れた発見を広く届けたいと考えるのは自然なことである。問題は、掲載先が研究の中身より先に決まり、研究の方がそれに合わせて形を変えていくときに生じる。

■ 現場の代償

掲載が目的化した研究室では、その重圧が最も弱い立場の人間、つまり大学院生やポスドクに集中する。「このデータではNatureには通らない」「期待した結果が出るまで繰り返せ」といった指示が、週末も深夜もない労働、人格を否定するような叱責、学位や推薦状を盾にした圧力と結びつくとき、それは研究指導の範囲を超え、アカデミックハラスメントやパワーハラスメントと呼ぶべきものになる。

こうした状況は個人の体験談にとどまらない。2018年にNature Biotechnology誌に掲載された約2,300人の大学院生への調査では、中等度から重度の不安を示した人が41%、抑うつを示した人が39%で、一般人口の約6%を大きく上回った。この調査は回答者を無作為に選んだものではなく、数字をそのまま一般化することには注意が必要だが、不安や抑うつを抱える回答者の約半数が指導教員から「本当の意味での指導」を受けていないと答えている点は重い。Nature誌自身が2019年に約6,300人の博士課程学生を対象に行った調査でも、約2割がいじめを、同じく約2割が差別やハラスメントを経験したと回答している。いじめの加害者として最も多く挙げられたのは指導教員であった。

ここで考えるべきなのは、個々のPIの人格だけではない。ポストも研究費も「CNSの有無」で決まると信じられている環境では、PI自身もまた追い詰められている。その焦りが研究室の階層を下り、最後は学生や任期付きのポスドクが引き受ける。彼らが心身を病んで研究を離れるとき、失われるのは一人のキャリアだけではない。将来その人が担ったかもしれない研究も、同時に失われている。また、過度な成果の圧力は、データを「整える」誘惑を生む土壌でもある。前節で述べた信頼性の問題と、この節の人の問題は、同じ根から生えている。

■ イノベーションを損なう構造

CNSを重視する評価は、「優れた研究を拾い上げる仕組み」として説明されることが多い。しかし、本当に新しい研究ほど、発表の時点ではその価値が理解されにくい。既存の枠内には収まらず、査読者にとっては「意義が不明瞭」「一般性が乏しい」と映るからである。

この傾向は実証的にも示されている。Wang、Veugelers、Stephanは2017年、2001年に出版された全分野の論文を対象に、過去に例のない組み合わせで先行研究を引用した「新規性の高い」論文を分析した。その結果、こうした論文は長期的には被引用数上位1%に入りやすい一方、短い期間では引用されにくく、インパクトファクターの低い雑誌に掲載される傾向があった。つまり、短期的な指標は、まさに本当に新しい研究を取りこぼしやすい。

歴史を振り返っても同じことが言える。クエン酸回路の発見を報告したクレブスの論文は、1937年にNatureに掲載を断られ(表向きの理由は投稿の滞留だった)、Enzymologiaという専門誌に発表された。大隅良典氏のオートファジー研究の出発点となった酵母の観察や遺伝学的スクリーニングは、Journal of Cell BiologyやFEBS Lettersといった専門誌に掲載された。カリコー氏とワイスマン氏の修飾ヌクレオシドに関する2005年の論文も、NatureとScienceに断られたのちImmunity誌に掲載されたと、ワイスマン氏自身が語っている。いずれも後にノーベル賞につながった仕事である。もし当時の評価者が「CNSに載っていない」ことを理由に彼らを二流と判断していたら、と考えると、この基準の危うさは明らかだろう。

さらに、多くの研究者が同じ雑誌を目指すと、研究テーマはその時々の流行に集中し、分野全体の多様性が低下する。異端的な問いや成果が出るまでに時間のかかる問いに取り組む余裕がなくなれば、短期的には華やかな成果が並んでも、長期的には本当の意味でのinnovativeな研究が生まれにくくなる。

■ 採用・評価基準としての危うさ

この風潮が最も具体的な影響を及ぼすのは、人事と研究費の審査である。応募者が多い公募では、業績リストに並ぶ雑誌名が最初の選別に使われやすい。論文を読まずに判断できるため合理的に見えるが、そこには少なくとも三つの問題がある。

第一に、雑誌の評価は個々の論文の評価ではない。インパクトファクターは雑誌全体の平均被引用数であり、その分布は大きく偏っている。少数の論文が引用の大半を稼ぎ、多くの論文はその平均を大きく下回る。同じ雑誌に載った論文でも、その後の影響力には大きな差がある。

第二に、CNSへの掲載には研究の質以外の要素が大きく影響する。所属機関の知名度、研究室の規模と資金、流行分野かどうか、編集者との接点、そして運。大きなラボの中堅メンバーとしてCNS論文に名を連ねた人と、小さな研究室で独自の問いを立て専門誌に堅実な論文を積み重ねた人のどちらが独立した研究者として優れているかは、雑誌名だけでは判断できない。雑誌名で選べば、もともと恵まれた環境にいた人がさらに有利になる。

第三に、この基準はそれ自体が不健全な動機づけを生む。評価者が雑誌名を見るなら、研究者は雑誌名を取りに行く。「指標が目標になると、それはもはや良い指標ではなくなる」というグッドハートの法則が、そのまま当てはまる。これまでに述べた信頼性の低下、目的の逆転、現場の疲弊は、この評価の仕組みが生んだ結果でもある。

こうした問題はすでに国際的に認識されている。2012年に米国細胞生物学会の年会で起草された「研究評価に関するサンフランシスコ宣言(DORA)」は、研究者の採用や昇進、研究費の審査に雑誌のインパクトファクターを用いないよう提言している。署名は170以上の国・地域の個人と機関、合わせて2万を超える。2013年にノーベル賞を受賞したランディ・シェクマン氏は、授賞式の前日に英紙への寄稿で、自らの研究室は今後CNSに論文を送らないと表明した。掲載誌に頼らない評価を求める声は、研究評価の改善をめぐる国際的な議論の一部である。

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では、何を基準にすればよいのか。答えは特別なものではない。論文を読むことである。その研究がどのような問いを立て、どれほど堅牢な方法で答え、他の研究者にどう利用され、後に検証に耐えたか。応募者本人がその仕事の中で何を担い、どのような研究を構想しているか。代表的な論文数本に絞ってその内容と貢献を記述させ、審査者がそれを読むという方式は、すでに一部の機関や研究資金配分機関で取り入れられている。手間はかかるが、研究者を評価するという行為には、本来それだけの手間が必要なはずだ。

また、再現性を高める取り組み、たとえばデータとプロトコルの公開、否定的結果の発表、追試研究、プレプリントによる早期の共有などを、業績として正当に評価することも必要である。学生やポスドクを健全に育てたこと、研究室から独立した研究者が育ったことも、PIの重要な業績として数えられてよい。

CNSに論文を載せた研究者の中には、優れた研究者が多くいる。それは事実である。しかし、その逆、つまりCNSに載せていない研究者は二流である、という命題は成り立たない。専門誌に堅実な仕事を積み重ね、分野の基盤を支え、誰も注目しない問いを長く追い続ける研究者がいてこそ、科学は前に進む。研究者を評価する尺度を雑誌の名前から研究の中身へと戻すこと。それが、科学の信頼性と研究者の健全さ、そして将来のイノベーションを守るための、最も地道で確実な方法である。手前で立ち止まってしまう人を、これ以上見過ごさないために。薬剤師免許や結婚が「前向きな理由」として研究からの離脱を静かに正当化してしまう空気を、少しずつでも変えていく必要があるのではないでしょうか。


著者:峰 覚


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