研究者の声:オピニオン



2026年4月27日更新

私は研究者になりたかったのか、それとも製薬会社の社員になりたかったのか

製薬会社に入社し薬理系の研究所に配属されてから、気づけばもう6年が経ちました。

大学院で修士をとったときは、もちろん自分が「一流の研究者」だなんて思っていませんでした。修士の2年間なんて、ほとんど指導教官の先生に言われた通りの実験をなぞるだけで精一杯でしたし、M1(修士課程1年生)の後半からはスーツを着て就職活動ばかりしていました。それでも、実験室でたまに予想外の反応が見えたりすると、先生と「これ、変ですね」「面白いじゃないか、もう一回確認してみろ」なんてやり取りをしてました。あの未熟なりに感じていた「何かがわかるかもしれない」というワクワク感が、今の仕事の原動力になるんだと信じていました。

でも、現場のやり方にも慣れて、後輩もでき始めた今、なんだか言いようのないモヤモヤがずっと胸の奥に溜まっています。研究って、こんなに窮屈なものだったっけ、と。

最近、そのモヤモヤをさらに黒くしているのが、後から入ってきた博士号(Ph.D.)持ちの後輩たちの存在です。

彼らは僕より年上だけど、社歴では後輩。でも、会議での発言や、新しいプロジェクトの立ち上げで見せる「科学的な深み」が、修士卒の僕とは明らかに違います。僕は過去数年、この会社の「やり方」に忠実に従い、トラブルなく実験を回すことに注意していました。でも、彼らが持っている、一つのテーマを数年かけて掘り下げてきた「研究者としての体幹」のようなものを見せつけられると、自分がただの「便利な実験作業員」に見えてきて、情けなくなります。

会社も、やっぱり博士号を持っている人を「将来のリーダー候補」として見ている気がします。僕がコツコツ積み上げてきたこの会社での6年間の現場経験よりも、彼らが大学で書いた数本の論文の方が、研究職としては価値があると言われているような気さえしてしまいます。先を越されるのは時間の問題だろうな、という予感。それが、日々の仕事にさらに重い影を落としています。自分は、彼らがスマートに研究を進めるための「下準備」を一生懸命やっているだけなんじゃないか。そう思うと、ピペットマンを握る手に力が入らなくなります。

それに、会社での実験そのものにも、圧倒的な「自由のなさ」を感じます。
 会社でのデータは、常に「その結果は、社内プロジェクトラインの次のステージに進めるか?」という物差しで測られます。例えば、実験の途中で「あれ、この細胞の動き、既存の論文と違うな」と気になる挙動を見つけても、それを追いかけることは許されません。

「それは今回のプロジェクトに関係あるの?」
 「スケジュールが2週間遅れるけど、君が気になっていることを実験したとして、その遅れに見合うデータが取れそうなの?」

上司からそう詰められると、黙るしかありません。大学のときは、その「ズレ」こそが新しい発見の入り口だったはずなのに、会社では「予定を狂わせるノイズ」でしかないんです。決められたプロトコルを、期限までに、正確にこなすこと。それが「優秀な社員」の条件で、自分の知的好奇心なんてものは、むしろ邪魔な不純物のように扱われてしまいます。博士の後輩たちも、いずれはこの壁にぶつかるのかもしれないけれど、彼らにはまだ「いざとなったらアカデミアに戻れる」「博士号を持って別の職種に進む」というカードがあるように見えて、それもまた羨ましくて、余計に自分が惨めに思えてきます

仕事の中身も、サイエンスというよりは「調整」ばかりな気がします。

薬理の実験は実験動物や培養細胞を扱うので、どうしてもブレが出ます。でも、経営層や他部門の人たちは、工業製品を作るのと同じ感覚で「いつまでにどのくらいの化合物を試せるんだ」と迫ってきます。結局、私たちがやっているのは、本当の意味で真理を探ることではなくて、上の方の人たちが会議で首を縦に振ってくれるような、都合のいい、きれいな資料を揃えることなんじゃないか。最近は、実験作業をしている時間よりも、パワーポイントの図の微調整をしたり、社内政治の根回しのためのメールや会議をしたりしている時間の方が長い気がして、ふと「自分は何の専門家なんだろう」と虚しくなります。

そして、一番怖いのは、やはり「自分の市場価値」のことです。

大学に残った同期が、給料は安くても自分の名前で論文を出して、世界に向けて発信している。後輩たちは、博士号という武器を持って堂々と議論している。それに比べて、私はこの6年間、社外秘の、どこにも出せないデータだけをひたすら積み上げてきました。

会社の独自ルールや、この会社でしか使わない実験設備の扱いには詳しくなりました。でも、もし明日この会社がなくなったら、私は一人の「研究者」としてどこかに受け入れてもらえるんだろうか。修士のときに持っていたはずの、拙いなりにピュアだった向上心が、効率重視のルーチンワークの中でどんどん錆びついていくのがわかって、週末一人で自分の部屋にいると、急に泣きたくなることがあります。

もちろん、わかっています。私たちはボランティアじゃない。それなりの給料をもらって、会社の膨大な予算を使って実験させてもらっている以上、利益に貢献しなきゃいけない。薬を待っている患者さんのために、一分一秒でも早くプロジェクトを進めなきゃいけない。それは、正論です。

でも、「患者さんのため」という正論が、研究者が持っているはずの「なぜ?」という問いを押し潰していい理由になるんでしょうか。効率を追求して、無駄を削ぎ落とした先に、本当に画期的な新薬なんて生まれるんでしょうか。

もし過去に戻れるなら、7年前に内定通知を見て「これで人生安泰だ、研究も続けられる」と喜んでいた自分に、今の私はなんて声をかけるのでしょうか。「安定と引き換えに、君は一番大事な自由を捨てることになるよ」なんて、そんな悲しいことは言いたくないです。

今日もまた、アラームに起こされて、満員電車に揺られて会社に行きます。そして、博士号持ちの後輩の鮮やかなプレゼンを横目で見ながら、自分の疑問には蓋をして、決められた通りの実験を繰り返します。いつかこの「我慢」が報われて、誰かを救う薬に繋がると自分に言い聞かせながら。

でも、心の中のどこかで、あのみすぼらしかった大学の実験室で、先生と「これ、不思議ですね」と笑い合っていた時間を、どうしても探してしまっている自分がいます。


著者:S.N.


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