研究者の声:オピニオン



2026年3月19日更新

さようなら、バイオ研究

以下の文章は、私の研究者としての遺書のようなものである。バイオ研究という名の「椅子取りゲーム」に敗れ、40代半ばにして路頭に迷う一人の男の、救いようのない独白だ。

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私は今、段ボール箱に囲まれている。20年以上かけて積み上げてきた実験ノート、別刷りの論文、そして使い古したピペットマン。それらすべてが、3月末日をもって「不用品」に変わる。特任助教という名の、5年任期の使い捨て人材。まるで使い捨てライターのようだ。ガスが切れたら捨てられる。それが今の日本のバイオ研究業界における、我々ロスジェネ世代の現実だ。

20代の頃、私は自分が「選ばれし者」だと信じて疑わなかった。旧帝大の博士課程を修了し、ポスドクとして海外へ渡り、そこそこのインパクトファクター(IF)を持つ雑誌に論文を載せた。だが、帰国した私を待っていたのは、華々しいテニュアトラックのポストではなく、「特任」という名の不安定な椅子だった。

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今のバイオ業界は、構造的に歪んでいる。

かつては「30代で助教、40代で准教授」という双六のような上がりがあった。しかし今はどうだ。公募が出るたびに、1つの椅子を100人以上の「博士」が奪い合う。その中には、私と同じように特任ポストを渡り歩き、履歴書が継ぎ接ぎだらけになった40代が溢れている。

この業界の安定したポジションに就いている老人たちは言う。

「最近の研究者は小さくまとまる研究しかしない」
 「もっと独創的な研究をしろ」

笑わせないでほしい。

1年、あるいは3年という短期間で成果を出さなければクビがつながらない状況で、誰が10年かかる独創的な研究に手を出せるというのか。我々に許されているのは、確実に論文になりそうな、既存の知見の微修正だけだ。科学の進歩という大義名分は、いつの間にか「運営費交付金の獲得」と「IFの辻褄合わせ」にすり替わった。

さらに残酷なのは、この「特任」というシステムが、研究室の雑用を押し付けるための便利なツールと化している点だ。学生の指導、書類作成、機器のメンテナンス。研究の時間は削られ、深夜にようやくベンチに立つ。そうして必死に書いた論文のファーストオーサーは、自分が手取り足取り教えた学生になり、ラストオーサーは指示だけ出したPIになる。特任助教は、研究室という工場の「工場長代行」であり、代わりはいくらでもいる非正規雇用者に過ぎない。

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40代半ばは、世間では働き盛りと言われる年齢だ。

だが、この業界で「特任」として生きてきた人間にとっては、40代で任期が切れるというのはキャリアの死を意味する。企業公募には「35歳以下」という見えない壁があり、大学の公募は「将来性」という名の若さに席を譲る。私に残された道は、またどこかの地方大学で、数年の命を繋ぐための「特任」を探すことだけだ。しかし、その「特任」という今にも壊れそうな椅子ですらも、30代の人間に奪われることが多い。

「企業に行けばいいじゃないか? アカデミアに固執しすぎなんじゃないのか?」

外野は簡単にそう言う。だが、言われずとも、できるならそうしている。アカデミアに長年いた40代の「特任」を雇ってくれるような会社がどこにあるのだ。履歴書を送っても面接には滅多に呼ばれない。呼ばれても、そこで目にするのは自分よりも若い面接官の冷めた視線だけだ。彼らにとって、私は「扱いづらい高学歴のロートル」でしかない。現場で手を動かせる若手か、即戦力のマネジメント経験者。そのどちらでもない私は、労働市場においてゴミ同然の扱いを受ける。

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先日、指導していた学生に「先生みたいに地道な研究をきちんと行う立派な研究者になりたいです」と言われた。

私は何も答えられなかった。ただ、乾いた笑いを浮かべるしかなかった。「この地獄へようこそ」とでも言えばよかったのだろうか。それとも、「今すぐこの業界から逃げろ」と引導を渡すべきだったのか。

バイオテクノロジーが国を救う?

笑止千万だ。人を使い捨て、情熱を搾取し、40代の専門家を路頭に迷わせるシステムの上に、まともな科学など育つはずがない。日本の科学力低下が叫ばれて久しいが、それは当然の帰結だ。苗床にコンクリートを流し込んでおいて、なぜ花が咲かないのかと嘆いているようなものだ。

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3月31日、私はこの部屋の鍵を返す。

4月から私が何者になるのか、私自身にもわからない。

ただ一つ言えるのは、私はこの「歪み」の犠牲者であり、同時に、このシステムを維持するために加担してしまった共犯者でもあったということだ。

さようなら、バイオ研究。

君は美しかったが、君がいるこの場所はあまりにも残酷すぎた。


著者:匿名希望


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