“50代&非PI”の生存戦略〜「持たざる研究者」のサバイバルガイド
Tweet“50代&非PI”の生存戦略〜「持たざる研究者」のサバイバルガイド
第12回(最終回):自らの人生の主宰者(PI)として生きる
全12回にわたる思考の旅も、いよいよ今回で最後となります。
「50歳、非PIの生存戦略」。このいくぶん挑発的で、しかしどこまでも切実なサブタイトルを掲げて始まった本連載で、私たちが試みてきたのは、単なる一時しのぎの世渡り術や、組織内で生き残るための浅知恵の伝授ではありませんでした。それは、長年アカデミアという特殊で閉鎖的な空間で生きてきた私たちが、知らず知らずのうちに身に纏わされてしまった「歪んだ価値観」や「精神の呪縛」を、一つずつ丁寧に見つめ直していくための、知的な棚卸しのプロセスそのものでした。
振り返ってみてください。第一回からここに至るまでの道のりの中で、私たちは実にさまざまな「思い込み」と向き合ってきました。
「PI(研究室主宰者)になれなかった者は、研究者として何かに失敗したのだ」という制度的な思い込み。「トップジャーナルのインパクトファクター(IF)が自らの知性の証明である」というジャーナル信仰。「無償のpeer review奉仕こそが研究者の美徳である」という、一方的な負担構造。そして、「Up or Out」という制度が生み出す、終わりのない比較と承認欲求のゲーム。
これらの思い込みは、今までなら説得力のあるものに見えたかもしれません。しかし、一つひとつを個別に、そして冷静に検討していくと、その多くが「組織の側にとって都合のよい前提」であり、必ずしも私たち自身の幸福や納得感とは結びついていないのです。これらの「他者が作った物差し」に、必ずしも従い続ける必要はないのだと気づいたとき、私たちの手元には何が残るのでしょうか。
肩書きも、権力も、潤沢な研究費の差配権もない、文字通りの「持たざる者」となった私たち。しかし、その状態は、けっして敗北や喪失を意味するものではありません。むしろ、自らの知性を、他人の評価から切り離して見つめ直せるようになった者だけが得られる、ある種の落ち着きと静かな手応えが、そこにはあるのです。
私たちは何かを一方的に失ったわけではありません。長年当たり前だと思い込んでいた前提を一つひとつ点検し、より軽やかで、自分の裁量の効く「個の研究者」として、あらためて自分の足で立つ場所を見つけ直したのです。この点検の作業は、決して一度で終わるものではなく、これからも折に触れて繰り返していく必要があるのだろうと思います。価値観というものは、放っておけばまた少しずつ、外側からの評価に引き戻されていくものだからです。
***
本連載を通じて、私たちがたどり着いた一つの結論があります。それは、「組織から与えられるPIの椅子を得られなかったとしても、自らの人生というプロジェクトの主導権まで手放す必要はない」という、当たり前のごくシンプルな事実です。
アカデミアにおける「PI」とは、これまで繰り返し述べてきたように、その実態の多くが事務処理、予算獲得、会議、学内および学外での政治、といった管理業務に多くの時間を割かれるポジションです。研究室の名目上の代表者ではあっても、必ずしも自分の時間や関心を自由に使えているわけではない、というケースは決して珍しくありません。実際、多くのPIが「もっと自分の手で実験がしたい」「もっと現場のデータに触れていたい」とこぼしているのを、私たちは何度も耳にしてきたはずです。肩書きが上がることと、時間の使い方が自由になることは、必ずしも同じ方向を向いていません。
一方で、50代の「非PI」として現場に立つ私たちはどうでしょうか。
大学や研究所の組織図の上では、私たちは「雇用されている一研究員」という位置づけかもしれません。しかし、実験室に入り、使い慣れた自分のベンチに腰を下ろした瞬間、状況は少し違って見えてきます。
どの実験系を、どのようなロジックで組み立てるか。得られた複雑なデータセットを、RやPythonのどのようなコードで可視化し、解析するか。若手の未熟なプロトコルを、どのように整え、論文のクオリティを支えていくか。
こうした現場レベルの意思決定に日々関わり、自らの手で自然のデータと向き合い続けているのは、他ならぬ私たち自身です。組織上の「PI」という肩書きは、それを担う人に委ねればよいのです。私たちは、自らの知性、自らの時間、自らの手で生み出すデータ、そして何より自らの「後半生の時間の使い方」を、自分の裁量で決めていく。いわば、自分自身の人生というプロジェクトの、実質的な主宰者として生きていくことができます。
この視点の転換こそが、「持たざる者」であることの、一つの前向きな捉え方だと言えるのではないでしょうか。組織上の肩書きがどうであれ、自分の時間と関心の使い方を自分で決められるという感覚は、日々の充実感に直接つながってくるものです。それは大きな決断を一度下せば得られるようなものではなく、日々の小さな選択(どの実験にどれだけ時間をかけるか、誰の依頼にどう応えるか)の積み重ねの中で、少しずつ確かなものになっていくのだろうと思います。
***
では、50代からの研究者人生において、私たちが積み重ねていくものとは何でしょうか。一時的な注目を集める、再現性の危うい派手な論文でしょうか。学会で周囲に権威を誇示することでしょうか。数年も経てば忘れられてしまうような、学内の役職の履歴でしょうか。
そのどれでもないはずです。私たちが積み重ねていけるのは、「時間が経っても揺らぐことのない、堅牢で再現性のあるデータ」であり、「自分の仕事ぶりを見ていた若い研究者たちの中に、静かに残っていく仕事への向き合い方」です。
ラボのベンチで、一つのコントロール(対照群)のデータにも手を抜かずに向き合った記憶。あなたが整えたデータ解析のスクリプトが、行き詰まっていた若手の論文を後押しした瞬間。理不尽な要求に対して、感情的にならず、データをもって静かに応じたあの立ち振る舞い。
それら一つひとつの積み重ねこそが、この学術界という場所で、あなたが実際に残してきたものです。派手な形で注目を集める役割は、いずれ次の世代に引き継がれていきます。しかし、現場のベンチに立ち続け、データの品質を支え続けてきた仕事は、目立たない形であっても、次の世代の研究を静かに下支えし続けていくはずです。
こうした仕事の多くは、業績リストの一行にもならず、誰かに大きく評価されることもないかもしれません。それでも、あなたが手を貸した若手が、数年後に自分の研究室を持ち、あなたから学んだ姿勢を、今度は自分の後輩に伝えていく。そうした形でしか可視化されない種類の影響力もまた、確かに存在します。肩書きを失うことを必要以上に恐れる理由はありません。現場の最前線で、自らの技術を磨き続けること。それ自体が、一つの確かな在り方だと言えるのではないでしょうか。
***
私は30年にわたる日米での研究生活で見聞きしてきたことと、学術界の現実について、できる限り率直に書き連ねてきました。
時に厳しい見方だと感じられた部分もあったかもしれません。ただ、私自身は、都合の良い慰めの言葉だけでは、本当の意味での納得や落ち着きにはたどり着けないと考えています。自分が置かれている構造と、自分自身の現実を一度きちんと見つめ直すことで、初めて見えてくる選択肢や自由もあるはずです。
この連載で書いてきたことのすべてに、読者のみなさんが同意する必要はありません。人によって置かれている状況も、大切にしたい価値観も異なります。ただ、もし今、肩書きや評価に振り回されて息苦しさを感じている方がいるなら、ここで書いてきた視点の一つでも、その息苦しさを少し軽くする助けになればと思っています。
今、この文章を読み終えようとしているあなたへ。
明日、いつもと同じ実験室のドアを開けるとき、そこでの時間の感じ方が、これまでと少し違ったものになっていればと思います。研究室の片隅にあるあなたのベンチは、不当な評価に耐えるためだけの場所ではないはずです。そこは、あなたが自分の知性を使い、自然の仕組みと向き合い、自分のペースで研究を続けていくための、一つの持ち場です。出世のレースを走りたい人には、そのレースを走ってもらえばよいのです。私たちは、自分が使い慣れた道具を手に取り、自分の歩幅で、これからも研究という営みを続けていければと思います。
50代。ここからも、それぞれのペースで、研究者としての時間を重ねていきましょう。
【特別コラム #12】50代・非PIとして頑張るあなたへ贈る「10の行動指針」
連載の最後に、これまでの内容を振り返るための10の指針をまとめておきます。迷ったときに立ち返るための、簡単なメモとして活用してください。
1. 肩書きだけで自分を定義しない。日々の実務とスキルを、自分の拠りどころにする。
2. ボスの機嫌に一喜一憂しすぎない。データの堅牢さを、判断の軸にする。
3. ファーストの座に固執しすぎない。セカンド・オーサーとして、複数のプロジェクトに関わる道もある。
4. 自分にしかできない技術や解析の型を、日々の中で育てていく。
5. 若手と競うのではなく、彼らの実務的な相談相手になる。
6. 論文の「外」にも目を向け、自分の知性を活かせる場を広げていく。
7. 他人のインパクトファクターと、自分の価値を比べすぎない。
8. 不要な見栄や、消耗するだけの政治的な関わりは、少しずつ手放していく。
9. 孤独を感じることがあっても、それを自分の判断で立っていることの表れとして受け止める。
10. 自分の時間の使い方については、自分自身が主導権を持つ。
この10か条は、一度に全部を実践する必要はありません。今の自分にとって一番引っかかる項目が一つでも見つかったなら、そこから少しずつ始めてみてください。全12回、最後までお読みいただき、ありがとうございました。

