研究と恋愛〜ライフサイエンス研究者の幸福論
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第13回:男性/独身/50代/特任助教/恋人なし
秋の休日の午後、澤田和彦(52歳)の勤務先の大学がある街で、駅前の喫茶店で話を聞いた。澤田は、アメリカンコーヒーにスティックシュガーを2本入れ、しばらくスプーンで混ぜてから話し始めた。
「勉強は、やり方がわかっていました。教科書を読んで、問題を解けば、答えが合っているかどうかはすぐにわかる。恋愛については、どう進めればいいのか、最後までよくわからないままでした」
身長は170センチほど。腹回りに少し肉がつき、ジャケットの前ボタンは留めていない。白髪の混じった髪は短く整えられている。席に着いてからしばらくは、こちらの顔よりもテーブルの上のICレコーダーに目を向けていた。録音が始まっているかを二度確認し、それから質問に答え始めた。
答える前に少し間を置く人だった。質問を頭の中で整理してから、言葉を選んで話す。話の途中で「すみません、今のは質問の答えになっていますか」と確認することが何度かあった。
澤田は現在、地方国立大学で特任助教を務めている。専門は末梢神経における痛みの発生メカニズム。皮膚や内臓にある痛覚受容体やイオンチャネルの働きを調べ、慢性痛の治療標的になりうる分子を探している。契約は単年度更新で、任期は最長3年。結婚はしておらず、ひとりで暮らしている。
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地方の公立進学校から、首都圏の有名大学の理学部に進んだ。大学院では神経生理学を専攻し、28歳で博士号(理学)を取得している。
「子供の頃から、本を読むことと理系科目の問題を解くことが好きでした。自分がその問題を間違えたとしても、問題集の解答を見れば自分がなんで間違えたのかが納得できるのでなんだか安心したんです。で、理系科目が好きだということが高じて研究の道に進んだんです。親も、勉強のことでは何も言わなかったです。言う必要がなかったんだと思います」
中学や高校の頃から、友人は多い方ではなかったという。休み時間は本を読んでいることが多く、クラスの話題にはあまりついていけなかった。
「嫌われていたわけではないと思います。ただ、何を話せばいいのかがよくわからなかった。テレビ番組の話や、誰と誰が付き合っているという話を、どう返せばいいのか。授業の内容についてなら話せたので、勉強を教えてほしいと言われると、少し嬉しかったのを覚えています」
大学に入ってからも、その傾向は大きくは変わらなかった。サークルには入らず、学部3年の後半で研究室に配属になってからは研究室で一日の大半の時間を過ごすようになった。
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澤田の大学院時代の生活は、ほとんどが研究室の中で完結していた。
主な実験はパッチクランプ法だ。ガラス管の先端を神経細胞の膜に密着させ、細胞一つひとつの電気信号を記録する。顕微鏡をのぞきながら手で操作するため、集中力と根気が要る。細胞の状態が良い日には、夜遅くまで記録を続けた。培養細胞の世話があるため、週末も研究室に顔を出すのが普通だった。
「細胞は、こちらの都合に合わせてくれません。今日はうまくいきそうだという日に、途中で切り上げて帰る気にはなれなかった。そういう生活を続けていると、平日の夜や週末に予定を入れるということ自体を、考えなくなっていきました」
澤田に言わせると、同じフロアの他の研究室の学生や研究者も、似たような生活を送っていたという。研究以外の場で人と知り合う機会はほとんどなく、出会いがあるとすれば、研究室の中か学会くらいだったらしい。研究室には女性の学生や技術職員もいて、そういう人たちと話す機会がなかったわけではなかったようだが、話題はセミナーの準備や試薬の在庫のことばかりだったらしい。
「業務の話ならできるんです。何をすればいいかがはっきりしているので。でも、そこから雑談に移るタイミングが、わからなかった。何か言おうと考えているうちに、相手はもう別の人と話していました。忙しかったのは事実ですが、それを理由にして、慣れないことを避けていた面もあったと思います。研究なら、やればやった分だけ前に進む。人付き合いは、何をすれば前に進むのかがわからなかったので」
博士号取得後は、国内の別の大学でポスドクを務めた。30代前半に、一度だけ結婚相談所に登録している。
「同じ研究室にいた後輩が結婚したんです。その頃、実家の母からも、そろそろどうなのかと言われていました。自分で出会いを作るのは難しいとわかっていたので、仕組みとして用意されているものを使ってみようと思いました」
学歴や職業の条件から、お見合いの申し込みはいくつかあった。ただ、実際に会うと会話が続かなかった。
「事前に、話題のリストを作って行ったんです。趣味、仕事、休日の過ごし方。でも、相手の方が答えてくださったあとに、どう広げればいいのかがわからなくて。沈黙が続くのが怖くて、自分の仕事の話を始めてしまいました。痛覚受容体のTRPV1チャネルの話などです。唐辛子の辛さを感じる受容体なので、話のきっかけとしては悪くないと思ったんですが、気がついたら15分くらい一人で話していました」
相手の女性は、最後まで聞いてくれたという。次の連絡はなかった。同じようなことが3回続いた。
もうひとつ、澤田にとって答えに困った質問があった。
「将来どこに住む予定ですか、と聞かれたんです。わからない、と答えるしかありませんでした。その時点で次の職が決まっていなかったので。ポスドクの契約が切れたら、国内か海外か、どこに行くかもわからない。正直に答えたつもりでしたが、相手からすれば自分を候補から外す理由になっていたと思います」
その後まもなく、澤田は相談所を退会し、アメリカの大学へポスドクとして渡った。34歳のときだった。
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アメリカでは、二つの研究室に在籍した。
最初の研究室は、末梢神経の電気生理を専門とする中規模のラボだった。主宰者は穏やかな性格の男性研究者で、澤田の実験技術を評価し、比較的自由にテーマを任せてくれた。
「英語は読み書きはできても、話すのは苦手でした。でも、そのラボではデータを見せれば話が通じた。実験結果をスライドにまとめて持っていくと、ボスがそれを見ながら質問してくれる。言葉が足りない分を、データが補ってくれる環境でした」
4年ほど在籍したところで、ボスが別の大学に移ることになった。その際にラボは縮小され、澤田はボスについていかずに、同じ分野の別の研究室に移った。
二つ目の研究室の主宰者は、女性の研究者だった。痛覚の分子機構の分野でよく知られた人で、研究室の規模も大きかった。澤田はそこで4年近く実験を続けた。
「実験環境は恵まれていました。技術的にも多くを学びました。ボスはとても頭の回転が速い人で、ミーティングでは次々にアイデアを出す。私はそれを一度持ち帰って、文献を確認してからでないと意見が言えないタイプでした。その場で返事ができないので、関心がないように見られてしまっていたのかもしれません」
研究の進め方についても、澤田と新しいボスでは考え方が違った。彼女は複数の仮説を並行して素早く試すことを好み、澤田は一つの現象を時間をかけて確かめることを好んだ。
「どちらが正しいということではないと思います。彼女のやり方で成果を出している人もたくさんいました。ただ、私はそのやり方に合わせるのがうまくなかった。彼女が前の週に出した仮説について、後日のミーティングで、確認した文献をもとに、データ上は難しいのではないかと言ってしまったこともあります。間違ったことを言ったつもりはありませんが、言い方やタイミングは考えるべきでした。皆の前でなく、個別に伝えればよかった。後から思うと、もう少し違う伝え方があったはずです」
その女性PIとの間で、大きな衝突があったわけではないという。ただ、会話は次第に業務連絡が中心になっていった。
42歳のとき、契約更新についての話し合いで、次の契約は更新しないと告げられた。
「研究室の方針として、新しいテーマに人員を割きたいという説明でした。私とは性格が合わなかったのだろうと思います。それは向こうだけの問題ではなく、こちらにも問題があったと思います。彼女には彼女の考えがあって、研究室を運営する責任がある。私をそのまま置いておく理由が、向こうにはあまりなかったということだと思います」
進めていたプロジェクトは、論文としてまとめきれないまま残った。データの一部は、後任のポスドクに引き継がれたという。
ただ、アメリカにいた8年近くの間、恋愛がまったくなかったわけではない。二つ目の研究室にいた頃、現地の日本人コミュニティで知り合った女性と、何度か食事をした。日系企業の駐在員として働いている人だった。
「話しやすい方でした。私が黙っていても、気にせずに話を続けてくれる人で。こういう人となら、と思ったこともあります」
半年ほど経った頃、その女性から、今後どうするつもりなのかと聞かれた。
「自分がいつまでアメリカにいるのか、帰国したらどこの大学に行くのか、何も決まっていなかった。それを正直に話しました。向こうも、数年後には日本に戻る予定だった。戻った先で一緒に暮らせるかどうか、何も約束できなかったんです」
それから、少しずつ会う回数が減っていった。
「はっきり別れようと言われたわけではありません。連絡の間隔が空いていって、そのまま終わりました。相手の判断はもっともだと思います。私が相手の立場でも、同じようにしたかもしれません」
澤田は、ここで少し話を止めた。「すみません、こういう話をするのは慣れていなくて」と言って、コーヒーを一口飲んで、大きく息をはいた。
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帰国後、澤田は任期付きのポストを順に移った。関東の私立大学に4年、九州で3年、そして現在の大学で3年目になる。いずれも「特任」の肩書きで、契約期間が終わる前に次の公募を探す。
「40歳を過ぎてからの公募は、なかなか通りません。常勤のポストは応募者が多いですし、年齢が上がるほど、それに見合った業績を求められる。アメリカ時代の仕事を論文にできなかったのは、大きかったと思います」
引っ越しのたびに、生活の基盤がいったんリセットされる。荷物は少しずつ減らしてきたが、論文のコピーや専門書の入った段ボールはなかなか減らせない。
「知り合いができても、数年後にはまた別の土地に移る。その土地での集まりに顔を出そうと思っても、どうせ数年でいなくなると思うと、足が向かなかった。もともと人付き合いが得意ではないので、なおさらです。誰かと長く付き合う前提が、なかなか作れませんでした」
特任助教の仕事は、主に教授が獲得した研究費のプロジェクトを進めることだ。実験の計画と実施、データの解析、学生の指導の補助などを担う。自分のテーマに割ける時間は限られる。
「教授には良くしてもらっています。ただ、プロジェクトの研究費で雇われている以上、そちらの成果を優先するのは当然です。自分のアイデアは、空いた時間に少しずつ試すくらいしかできません」
給与は年俸制で、同年代の会社員と比べて高い方ではない。引っ越しの費用もかさむため、貯金はあまり残っていない。40代後半からは寝つきが悪くなり、医師から睡眠薬を処方されている。
「人の痛みを和らげる研究をしているのに、自分は心の痛みに苦しんでいる。まるで喜劇ですよね」と、澤田は少し笑ったが、すぐに真顔に戻った。
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研究者仲間で結婚した人の話を聞くと、いくつかの型があると澤田は言う。
ひとつは、学生時代から交際していた相手と結婚した人だ。
「大学院の同期に、学部の頃から付き合っていた人と、博士課程の途中で結婚した人がいます。相手は研究とは関係のない会社に勤めていました。ポスドクで地方に行くことになったときも、相手が転職してついてきてくれた。研究者になる前から関係ができていたので、こちらの事情もわかったうえで一緒にいてくれたんだと思います」
研究の道に深く入る前に関係ができていれば、任期や移動の多さも、二人で相談しながら乗り越えられる。逆に、研究者として生活が固まってから相手を探そうとすると、最初からその事情を説明しなければならない、と澤田は説明してくれた。
もうひとつは、研究者同士で結婚した人だ。
「研究室や学会で知り合って結婚したという話も、よく聞きます。お互いに仕事の事情がわかるので、話が早い。ただ、二人とも任期付きだと、同じ地域でポストを見つけるのは難しい。結婚してから何年も、別々の県で暮らしている夫婦も知っています。週末に新幹線で行き来しているそうです」
それから、結婚相談所やマッチングアプリで相手を見つけた人もいる。
「一つ下の後輩が、40歳近くになってからアプリで相手を見つけました。条件をはっきり書いて、それに合う人を探したそうです。研究職で、任期があって、転居の可能性がある。そういうことを最初からプロフィールに書いておいた。それでも構わないという人と出会えたと言っていました」
その後輩は、相手と会う前に、自分の生活について文章で詳しく説明したという。
「私のやり方と、少し似ているんです。最初に情報を全部出して、それで合うかどうかを判断してもらう。ただ、後輩は会ってからの会話も上手でした。私は条件の説明まではできても、その先がうまくいかなかった」
そして最後に、常勤のポストを得て、生活の見通しが立ってから結婚した人がいる。
「助教や講師の常勤ポストが決まってから、すぐに結婚した人が何人かいます。住む場所と収入が決まると、相手にも説明しやすくなる。私の周りでは、これがいちばん多いかもしれません。結婚したくても、ポストが決まるまで待っていたという人も多いです」
澤田は、どの型にも当てはまらなかった。
「学生時代は研究しかしていなかったし、研究者同士で私的な交流をするほど親しくなる機会もありませんでした。相談所はうまくいかなかったし、常勤のポストも得られなかった。どこかで一つ違っていれば、と思うことはあります。ただ、どこをどう変えればよかったのかは、今でもよくわかりません」
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「恋愛が苦手だったのは、私自身の性格によるところが大きいです。それは認めます」
澤田は、カップを両手で持ったまま、少し考えてから続けた。
「ただ、3年後にどこにいるかわからない状況で、誰かに一緒に来てほしいとは、なかなか言えませんでした。言えたとしても、相手に負担をかけることになる。相手にも仕事があって、家族があって、生活がある。それを全部動かしてほしいと頼めるほどのものを、自分が持っているとは思えなかった。そう考えているうちに、時間が過ぎていきました。
実験は、条件をそろえれば同じ結果が出ることを確かめる作業です。同じ刺激を与えれば、同じ細胞は同じように応答します。うまくいかなかったときは、条件のどこが違ったのかを調べればいいんです。でも、人との関係は、そういう確認ができません。同じことを言っても、相手や日によって受け取られ方が違う。何がうまくいかなかったのかも、はっきりとはわからない。その違いに慣れるまでに、長い時間がかかりました。慣れたのかどうかも、まだよくわかりません」
研究者という仕事が、恋愛を難しくしたのかと尋ねると、澤田はしばらく黙った。
「仕事のせいにするつもりはありません。研究者でも、ちゃんと家庭を持っている人はたくさんいます。ただ、時間が自由にならないこと、住む場所が決まらないこと、収入の見通しが立たないこと。この三つが重なると、コミュニケーションがもともと苦手な人間には、かなり難しくなるとは思います。少なくとも、私にとってはそうでした」
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現在の契約は、来年3月末で終了する。大学からは、次の予算がつかないため更新はない、という連絡がすでに来ている。
毎晩、研究者向けの求人サイトJREC-INで公募を確認している。条件に合いそうなものがあれば応募書類を作るが、50代の特任助教が応募できるものは多くない。
「研究を続けられれば、それがいちばんいいとは思っています。でも、こだわるつもりはもうありません。研究職でなくても、生活ができればそれでいいと思っています」
具体的に何をするかは、まだ決めていないという。
「大学の事務職でも、どこかの会社のデータ入力でも、仕事があればやります。実験で身についたことのなかに、どこかで使えるものもあるかもしれません。正直なところ、何が向いているのかはわかりません。とりあえず、家賃が払えて、食べていければいい。今はそのくらいに考えています」
結婚については、もう積極的に考えてはいないと話す。
「考えないようにしているわけではないんです。ただ、今の状況で人に何かを頼める立場ではないので。生活が落ち着いて、もしそういう機会があれば、とは思いますが、期待はしていません」
澤田は最近、部屋で観葉植物を育て始めたらしい。ホームセンターで買ったポトスの小さな鉢だ。
「水をやると、少しずつ葉が増えていきます。週に一度、葉の数を数えています。記録をつけているわけではないんですが、つい数えてしまって」
そう言ってから、澤田は少し恥ずかしそうに目をそらした。
「仕事から帰って、それを見ながらコーヒーを飲む時間が、今はいちばん落ち着きます。引っ越すことになったら、これは持っていこうと思っています」
インタビューを終えると、澤田はレコーダーの録音が止まっているかを確認し、「長々とすみませんでした。うまく話せていたかどうか自信がありません」と言った。伝票を手に取ろうとしたので、こちらで支払うと伝えると、二度ほど遠慮してから、礼を言って手を引いた。店を出ると、日が傾き始めていた。澤田は軽く会釈をして、駅の方へ歩いていった。
*本連載は、著者が収集した多数の実例や証言を基に再構成したフィクションです。プライバシー保護および個人特定の防止のため、複数のエピソードを統合し、固有名詞の変更を含めた大幅な脚色を施しています。実在の特定の人物や組織を指すものではありません。

