研究と恋愛〜ライフサイエンス研究者の幸福論
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第8回:海外留学/女性/国際結婚/不妊治療/離婚/研究者廃業
科学にすべてを捧げることは美談として語られがちだ。しかしその陰で、研究への情熱と「普通の人生」への憧憬の双方を人質に取られ、どちらの切符も手に入れられないまま静かに航路を外れていく者たちがいる。
かつて国が掲げた「大学院重点化政策」と「ポスドク1万人計画」。それは多くの若者に「研究者という夢」を抱かせ、アカデミアという名の巨大な底なし沼へと誘う甘い呼び水だった。ブームに乗せられ、あるいは自らの純粋な知的好奇心に突き動かされて走った若者たちも、今や50代を迎えている。
加賀佐代子(50歳)も、その大波に翻弄され、すべてを失って日本に帰国したライフサイエンス研究者の一人だ。彼女が実家の一室で、古いノートパソコンに向かいながら静かに語った半生は、「自己責任」という安易な言葉では決して片付けられない、日本の科学政策の構造的敗戦の傷跡そのものだった。
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「あの場所に行くまでは、私の世界には研究室と顕微鏡しかありませんでした。男の人と食事に行くことも、誰かのために自分の時間を割くという感覚すら、三十代半ばを過ぎるまで知らなかったんです」
西日本の、のどかな自然に囲まれた地方国立大学。それが、加賀のすべての出発点だった。地元の進学校を優秀な成績で卒業し、親の期待を背負って進学した農学部。そこで彼女は、分子生物学という「生命の設計図」を解き明かす学問に魅了された。
大学院に進学した彼女は、文字通り「従順で優秀な兵隊」だった。朝早くからラボに来て、細胞に培地を換え、夜遅くまでPCRのチューブを仕込む。土日も盆暮れ正月もなく、ただ実験結果だけを追い求める日々。地方大学の閉鎖的な人間関係の中で、教授の指示は絶対だった。不器用で、世渡りは下手だったが、誠実さだけが取り柄だった彼女は、教授に言われるがままにデータを積み上げ、博士号を取得した。
しかし、博士号という切符を手に入れた彼女を待っていたのは、終わりの見えない「任期付き」の綱渡りだった。
「地方大学には、若い博士を受け入れる正規のポスト(終身雇用の助教や准教授)なんて最初からありませんでした。予算のついたプロジェクトのポスドクを数年、その後にようやく回ってきた任期付きの特任助教を数年。気がつけば、年齢は35歳になっていました。周りの地元の友人たちはみんな結婚し、家を建て、子育てが一段落し始めている。それなのに私は、数年ごとにクビになる怯えと、月々数万円の奨学金返済に追われる日々。このままでは、ここで干からびてしまう。そう思った時に、一筋の光が見えたんです」
それは、日本の公的機関が公募していた、海外留学のための奨学金の採択だった。
「これさえあれば、アメリカに行ける。本場のライフサイエンスに触れて、トップジャーナルに論文を出せば、帰国後に日本の大学でまともなポストに就けるかもしれない」
当時のボスが持つ細いコネクションを頼りに、加賀はアメリカ東海岸にある、世界的に有名な巨大研究組織へと旅立った。それは30代半ばにして初めて経験する、あまりにも遅すぎた「世界との出会い」だった。
渡米した加賀を待っていたのは、巨大な研究センターのなかに組み込まれた小さなラボだった。
「日本の大講座制のような、大御所教授を頂点とした組織の、末端にある一つの極小ラボでした。構成員は、40代後半の温厚な東ヨーロッパ出身のボス、私、そしてテクニシャン(実験補助員)が1人。最も多い時期でも、ボスを入れて4人が最多という、本当にアットホームと言えば聞こえはいいですが、リソースの限られた研究室だったんです」
英語もろくに話せず、アメリカの熾烈な競争のなかで、どうやって成果を出せばいいのか分からない。毎日が不安で、ラボの隅で窒息しそうな思いをしていた。実験は思うように進まず、ネガティブなデータばかりが積み重なる。孤独に押しつぶされそうになっていた加賀に、ある日、手を差し伸べてくれた人物がいた。
それが、隣のラボに所属していた、5歳年上のアジア人男性研究員だった。
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「彼は、アメリカの生活に馴染めず実験が上手くいかなくて泣きそうになっていた私に、毎日のように声をかけてくれました。拙い私の英語を優しく聞き取り、スーパーでの買い物を手伝ってくれ、時には彼が作った母国の料理を振る舞ってくれたんです。35年間、男性とまともに付き合ったこともなかった私は、彼の優しさに一瞬で溺れてしまいました」
ほどなくして二人は交際を始め、加賀は彼のアパートで半同棲のような生活を始めた。初めて誰かに愛されている、必要されていると感じる日々。研究室で惨めな思いをしても、家に帰れば彼がいる。それだけで、慣れないアメリカの空が、驚くほど色鮮やかに見えた。
「研究がすべてだと思っていた私の人生に、初めて別の軸ができたんです。彼のために料理を作り、週末に近くの公園を散歩する。それが、世間一般の言う『幸福』なのだと、初めて知りました」
しかし、その幸福はわずか1年で、最悪の形で瓦解することになる。
彼との結婚を意識し始めていたある日、彼の部屋を掃除していた加賀は、何かおかしな予感がして封筒やら書類やらが乱雑に詰め込まれていた引き出しを開けた。すると、その引き出しの奥から彼の母国語で書かれた手紙や、何枚もの写真を見つけてしまう。そこに写っていたのは、彼と、見知らぬ女性、そして幼い子供の姿だった。
「彼は既婚者でした。本国に妻と子供を残したまま、単身赴任でアメリカに留学していたんです。私には、ずっと独身だと言い張っていました。『今の妻とは離婚をするつもりだった』『君を騙すつもりはなかった、本当に愛しているんだ』と、彼は必死で弁明しました。でも、私は裏切られたショックで頭が真っ白になり、その日のうちに荷物をまとめて彼の部屋を飛び出しました」
心はズタズタだった。35歳を過ぎて初めて知った恋は、不倫という最悪の結末で幕を閉じた。しかし、残酷なことに時間は止まってくれない。
日本から得ていた海外留学奨学金の支給期間は、3年間という厳格なリミットがあった。成果を出して次の資金源を見つけなければ、その時点でアメリカでの研究者生命は終わる。しかし、失恋の深い傷跡と焦燥感から、加賀は実験机に向かっても集中できない日々が続いた。
「顕微鏡を覗いていても、涙でレンズが曇るんです。自分が何のためにアメリカに来たのか、何のために生きているのか分からなくなってしまった」
そんな彼女のボロボロな様子を心配し、声をかけてきた男性がいた。今度は、同じ研究センター内の別のラボ(元恋人とは異なるラボ)に所属する、同じくアジア系の独身男性研究者だった。
「前の彼とは違って、彼は本当に独身で、とても誠実な人でした。傷ついていた私は、彼の優しさに縋るようにして、再び恋に落ちました。その人は私よりも2歳下でしたが、お互いに年齢も年齢でしたから、付き合ってすぐに『結婚しよう』という話になったんです。40歳を目前にした、滑り込みのような結婚でした」
これでようやく、人並みの幸せを手に入れられた。研究が多少上手くいかなくても、温かい家庭があり、理解してくれる夫がいれば生きていける。加賀はそう自分に言い聞かせ、新しい生活に希望を見出そうとした。
しかし、ライフサイエンスの世界で生きる女性にとって、「40歳手前での結婚」は、さらなる過酷な闘いの始まりに過ぎなかった。
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「結婚してすぐに、周囲のプレッシャーが始まりました。40歳という年齢。子供を望むなら、一刻の猶予もないということは、生物学を修めた私自身が一番よく分かっていました」
加賀は、研究の合間を縫って不妊治療を始めた。アメリカの高度不妊治療は、日本とは比較にならないほど高額だ。健康保険がカバーするとはいえ、その回数には上限が定められている。さらに、毎日のように自分で腹部にホルモン注射を打ち、採卵と移植を繰り返すプロセスは、精神的にも肉体的にも加賀を追い詰めた。
「実験のスケジュールと、病院の予約時間を合わせるのがどれほど苦痛か、研究者の方なら分かってもらえると思います。重要な培養のタイミングと、採卵の日が重なってしまう。どちらかを諦めなければならない。そのたびに、研究者としての自分と、母親になりたい自分の双方が、お互いの首を絞め合っているような感覚でした」
追い打ちをかけたのは、夫の親族からの目に見えない重圧だった。アジア系の非常に保守的な家族観を持つ夫の実家からは、「子供はまだか」「なぜ仕事ばかりしていて、跡継ぎを産まないのか」「女性としての義務を果たしていない」という理不尽な言葉が、海を越えて何度も届いた。
「夫は最初は私を庇ってくれていましたが、徐々に実家の味方をするようになりました。『君が研究を少し休んで、治療に専念すればいいんじゃないか』と。でも、当時の私にとって、研究を完全に休むことは、キャリアの死を意味していました。結局、不妊治療は実を結ばず、私たちは毎日のように激しい諍いを繰り返すようになり、結婚生活は不妊治療の終了とともに数年で破綻。40代の半ばで、離婚しました」
離婚届にサインをしたとき、加賀の手元には、ホルモン治療でボロボロになった身体とその治療費で底を突いた貯金、そして、何年も完全にストップしてしまったプロジェクトの残骸しか残っていなかった。
当然、そんな状態で研究の成果が出るはずもなかった。日本からの奨学金はとうに切れていた。普通のアメリカのラボであれば、そんな人間に給与を出してくれるわけがなく、その時点でクビになり、ビザを失って強制帰国になるところだった。
しかし、加賀のいた小さなラボのボスは、驚くほどナイスで、人道的な人物だった。
「ボスは、私が離婚や不妊治療で心身ともにボロボロになっているのをすべて察して、何も言わずに、自分の持っている貴重なグラントから、私の給与を途切れさせずに出し続けてくれたんです。『佐代子、焦らなくていい。君の人生が一番大事だ。実験はできる時に進めなさい』と。その優しさに、どれほど救われたか分かりません。でも・・・」
加賀は、そこで一瞬言葉を詰まらせ、私とのオンライン会議のモニターから目を背けた。
「でも、その優しさが、結果として一番残酷な形で、ボスの首を絞めることになってしまったんです」
彼女の所属していたラボは、ボスを入れて最大でも4人という極小の組織だった。テクニシャンを除けば、実際に手を動かして実験を進めていたのは、加賀ともう一人のポスドクの2人だけで、ボスは主に研究の方向性を指導し、グラント申請書を書く立場にあった。つまり、加賀のプロジェクトが私生活の混迷によって完全に停止しているということは、ラボの実働戦力が「半分」になることを意味していた。
数年後、ボスの持っていた大型グラントが切れる時期がやってきた。アメリカのアカデミアは日本以上に徹底した成果主義だ。加賀を庇い、給与を払い続けた結果、ラボとしての顕著な論文業績を出すことができなかった。
結果、ボスのグラント申請はことごとく却下された。
資金を完全に失った小さなラボは、独立を維持できなくなり、同じ組織内にある別の資金が潤沢なラボへと吸収・併合される形で、実質的に「閉鎖」されることが決まった。ボスは、自身の城を失い、別のラボの配下に入り、シニアポスドクのような形で雇用だけは確保してもらった。しかし、加賀を含め、そこにいたラボメンバーはラボを去ることを余儀なくされた。
「ボスの悲しそうな、でも私を責めない優しい笑顔が、今でも夢に出てきます。私のせいで、あの人のラボが潰れてしまった。私がもっと優秀で、プライベートの不幸を実験室に持ち込まないような冷徹なマシーンになれていたら、ボスは今も自分の研究室を守れていたはずなのに。私は自分の人生だけでなく、アメリカでの最大の恩人の人生まで巻き込んで失敗したんです」
アメリカの青い空の下、彼女が必死に縋り付こうとした「研究」と「恋愛」の二つの糸は、どちらも手の中から滑り落ち、最悪の結末ともに消えていった。
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50歳を目前にして、加賀は身一つで日本へ帰国せざるを得なくなった。しかし、10年以上のアメリカ生活を経て戻ってきた母国は、彼女のような「業績のない、50手前の女性博士」を温かく迎え入れるほど甘い世界ではなかった。
「日本のバイオ系アカデミアは、私が若かった頃よりもさらに悲惨なことになっていました。どこの大学のポストに応募しても、書類選考の段階で落とされる。ポスドクはおろか、任期付きの特任助教の口すら、私にはありませんでした。公募の要件にある『過去5年の論文業績』という欄を見るたびに、胸が締め付けられるようでした。私の過去5年は、離婚と不妊治療と、ラボの崩壊だけで埋まっていたからです。もちろん、アカデミア以外の職がないかも探したのですが、私のような経歴の人を欲しがる企業なんてありませんでした」
現在、50歳になった加賀は、西日本にある地方の実家に戻り、70代後半になった高齢の両親と3人で暮らしている。
現在の彼女の肩書は、いくつかの大学を掛け持ちする「非常勤講師」だ。週に数コマ、一般教養の生物学の講義を担当するためだけに教壇に立つ。しかし、非常勤講師の給与はコマ給であり、月収にすれば数万円程度にしかならない。当然、それだけで独立して生計を立てることは不可能だ。老親の年金と、不定期のアルバイト、そして、かつてのわずかな貯蓄を切り崩しながら、実家の一室に身を寄せている。
「小さい頃から、両親には本当に教育に力を入れてもらいました。地元のトップの進学校に行かせてもらい、国立大学の大学院まで出してもらい、アメリカへ留学する時も『頑張ってきなさい』と送り出してくれた。近所の人たちからは『自慢の娘さんね、将来は大学の先生ね』と言われていたんです。それなのに、50歳にもなって、定職にも就けず、結婚もできず、孫も見せてあげられず、こうして実家に戻って親の年金でご飯を食べている。申し訳なくて、情けなくて、夜中に一人で布団の中で声を殺して泣く毎日でした」
しかし、そう語る加賀の表情は、決して悲壮感だけにあふれているわけではなかった。
彼女の6畳間の自室、その古びた学習机の上には、型落ちのノートパソコンが置かれ、画面には膨大な遺伝子配列のデータや、カラフルなヒートマップ(遺伝子発現データの視覚化)が表示されている。
「皮肉なものですよね」と、加賀は小さく笑った。
「アメリカにいた頃は、グラントにつながるデータをださなきゃいけない、論文を書かなきゃクビになるという義務感と、将来への恐怖だけで実験をしていました。でも、すべてを失って、研究者としてのキャリアが完全に死んだ今になって、人生で一番純粋に、科学を楽しめているんです。お金には一銭もならないし、私が解析した結果を待っているボスもいません。でも、世界中の研究者がネット上に公開しているオミクスデータをダウンロードして、趣味の延長でシコシコとデータ解析をしているんです。最新の論文を読んで、『ああ、この遺伝子はここに繋がっているのか』と一人で納得する。この時間だけが、私がかつて研究者だったという、唯一の証明であり、心の拠り所なんです」
夕方になると、加賀はパソコンを閉じ、1階へと降りていく。足腰が弱くなった母親と一緒に台所に立ち、ネギを刻み、出汁を取る。父親が居間でテレビのニュースを見ている。3人で食卓を囲み、他愛のない世間話をしながら、慎ましい夕食を食べる。
かつてアメリカの巨大な最先端研究センターで、世界のトップランナーたちと競い合おうとしていた日々から見れば、それはあまりにも静かで、小さな生活だ。しかし、この数ヶ月、加賀は「こういう生き方も、悪くないのかな」と思い始めつつあるという。
「でも、どこで道を間違えてしまったのか、今でも時々分からなくなることがあります。大学院重点化とか、ポスドク1万人計画とか、この国が作り出した華やかな神輿に、私は深く考えずに乗せられてしまった。あのお祭りのような熱病の時代に流されず、もっと早くに自分の器量を見極めて、地方の企業に就職するとか、地に足をつけた人生を選んでいれば、もっと普通に親を安心させられたのかもしれない、と思うことはあります」
加賀はモニターにうつる私を見つめた。実家のある街には、アメリカで見たような高層ビルや巨大な商業施設はない。ただ、見慣れた地方都市の、静かな平穏が漂っているだけだ。
「研究者になって、世界を変えるような発見をするなんて、地方の凡庸な私にはすぎた夢だったんです。でも・・・」
彼女はそこで一瞬、言葉を切り、言葉の裏にある、一番深い場所にある寂しさを絞り出すように呟いた。
「でも、それならせめて、誰かと結婚して、家庭を持って、子供を育てて、普通に歳を重ねていくという、世間一般の『普通の幸せ』くらいは、私に許されてもよかったんじゃないのかなって。どちらの夢も、私には高望みだったのかなと思うと、時折、どうしようもない寂しさが、この胸を通り過ぎていくんです」
彼女の言葉は、自己責任という安易な言葉では決して切り捨てられない、日本のライフサイエンスが抱える構造的欠陥と、その犠牲になった一人の人間のリアルな肉声だった。
科学の進歩というきらびやかな光の裏側には、加賀のように、実家の一室で静かに、しかし確かに今も科学を愛し続けながら、航路の果てを生きている人が無数に存在している。この国の科学政策を進めている人たちは、彼ら彼女らの失われた時間を、そして奪われた普通の幸福を、一体どう受け止めるべきなのだろうか。
*本連載は、著者が収集した多数の実例や証言を基に再構成したフィクションです。プライバシー保護および個人特定の防止のため、複数のエピソードを統合し、固有名詞の変更を含めた大幅な脚色を施しています。実在の特定の人物や組織を指すものではありません。

