研究と恋愛〜ライフサイエンス研究者の幸福論



研究と恋愛〜ライフサイエンス研究者の幸福論

第5回:私大教授/男性/学生結婚/デキ婚

「わざわざこんな遠いところまで、よくお越しくださいました」

初夏の柔らかな日差しが差し込む、地方都市の私立大学。その真新しい薬学部棟の教授室で、藤堂彰(50歳)は、少しせわしなく額の汗をハンカチで拭いながら迎えてくれた。

藤堂は、お世辞にも「シュッとした、爽やかな教授」とは言えない風貌だ。年齢相応にぽっこりと出た腹、少し猫背気味の体型、そして使い込まれた大きめのポロシャツ。どこかの田舎の学習塾の先生か、あるいは親しみやすい「近所の小太りなおじさん」といった風情である。現在彼は、この地方私大の薬学部で薬物動態学の講義を担当している。学生たちからは陰で「藤堂ちゃん」などと呼ばれ、妙に人懐っこく愛されている教授だ。

「いま、上の娘は都内の調剤薬局で薬剤師として働いています。安月給だって文句を言いつつも、楽しそうにやっていますよ。下の娘も、一浪はしましたけれど、私の出身大学と同じ薬学部に合格しましてね。二人とも、私と同じ薬学の道を選んでくれました。

まあ、下の子は上の子の話を聞いているのか、自分は薬剤師じゃなくて研究の道に進む、なんて言っていますけどね。そこは茨の道だからやめた方がいいよ、とは言うんですけど(笑)。いずれにしても、学費の計算やら仕送りの工面に追われ続けた、父親としての任務も、これでようやく折り返し地点です。いやあ、本当にあっという間でしたよ」

藤堂はそう言って、スマートフォンの待ち受け画面を愛おしそうに見つめた。ふくよかな頬をさらに緩めてその画面に目を落とすその姿は、もう完全に「親馬鹿なパパ」そのものである。画面には、桜の木の下で仲良く並んで微笑む藤堂の娘たちの姿があった。

***

時を遡ること26年前。1990年代末、藤堂は関西の名門旧帝国大学の大学院で、薬学研究科の修士課程2年として、朝から晩まで実験室にこもる日々を送っていた。当時から決してお洒落なタイプではなく、白衣のポケットにいつもノートを詰め込んでいるような、真面目でどこか垢抜けない男だった。

そんな彼の運命が動いたのは、共同研究のためにちょくちょく出入りしていた、同大学医学部の医局でのことだった。

「その医局に、データの整理や診療報酬の計算を担当していた女性がいたんです。それが今の妻です。彼女は当時、私より8歳上の32歳。医療事務の職員として働いていました。私はまだ24歳で、世間知らずで頭の中は実験のことばかり。そんな私に、彼女はいつも『お疲れ様』とにこやかに微笑んでくれたりしたんです。その落ち着いた包容力に、私は憧れの気持ちを抱いていたんです。正式なお付き合いという感じではなかったのですが、ちょっとした空き時間にお茶をしたり食事をしたりしていました」

二人のそのような関係は、周囲には内緒にしていたようだ。だが、修士論文の提出を数ヶ月後に控え、博士後期課程への進学が内定していたある日、予期せぬ知らせが舞い込んだ。彼女の妊娠が発覚したのだ。

「頭の中が真っ白になりました。当時はまだ、学生が結婚して子供を持つなんて、経済的にも正気の沙汰ではないと言われる時代です。私は収入のない学生でしたし、博士課程に進めば、さらに3年間は無収入が続きます。

『どうしたい?』と彼女に聞かれたのを覚えています。なんて答えればいいかわからず黙っていたんですが、彼女は『あなたの夢を奪うようなことはしたくない。あなたの人生を台無しにするくらいなら、私は静かに身を引く』と、目に涙を溜めながら言ってくれたんです。それなら私も、覚悟を決めるしかないと思いました」

幸い、周囲の人たちはみんな理解を示して優しくしてくれたようだ。だがそれは、「憐れみの気持ち」の表れだったのかもしれない。藤堂はまだ24歳のうぶで垢抜けない学生で、お相手は8歳も上の社会経験豊富な32歳。「藤堂くん、年上の行き遅れたお姉さんに捕まっちゃったんだな」「責任を取らされて可哀想に」なんて、裏ではちょっと同情されていたみたいだと、藤堂は苦笑いしながらそう語った。

だが、藤堂の実家の両親の激怒ぶりは凄まじかったようだ。「学生の分際で何を考えているんだ!」「勘当だ!」と、一時は絶縁寸前まで追い込まれた。実家からの金銭的なサポートは期待できず、博士課程進学を諦めてどこかに就職することを考えたらしい。

「でも、妻が『あなたは絶対に研究を続けるべきだ』と背中を押してくれたんです」

そう言われたこともあり、藤堂は結局は博士課程へと進学することを決めた。そこからは、本当に周囲のサポートに救われたという。学生結婚の生活を支えたのは、人と人との温かい繋がりだった。

まず、医療事務として働いていた妻の貯蓄と、娘の誕生を大喜びしてくれた義理の両親からの手厚い生活費の援助があった。さらに、藤堂の指導教授だけでなく、共同研究先の医学部の教授も後押ししてくれたことで、日本学術振興会の特別研究員(DC2)に採択された。そこからは毎月の研究奨励費が入るようになり、経済的な基盤は一気に安定した。

「最初はあれほど怒っていた私の両親も、初孫の顔を見たら一瞬でフニャフニャになってしまいましてね(笑)。結局、おむつ代だ、ベビーカー代だと、いろいろとサポートしてくれるようになりました。本当にありがたかったです」

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しかし、経済的な支援があったとしても、それでもやはり育児と博士課程の研究を両立する日々は想像を絶する過酷さだった。

「生まれたばかりの小さな赤ん坊の世話をしながらの研究というのは、とにかく大変の一言でした。実験以外の作業は家でやってもいいと指導教授に言われていたものの、家では集中して調べ物をするのが難しかったですね。長女はぐずることもあるし、夜泣きもひどかったので。妻も頑張って家のことをやってくれましたし、義両親も助けてくれましたが、それでも私一人が育児をせずに研究ばかりしているわけにはいきませんでした。睡眠不足で頭がぼーっとする中、片手で長女をあやしながら、もう片方の手でレポートをまとめたり、文献を読んだりする毎日でした。

でも、周りの同年代の友人たちは『飲み会だ』『旅行だ』と、自分の時間を自由に使っていました。今みたいにSNSなんてものはありませんでしたが、彼らの楽しそうな学生生活はよく耳に入ってきたんです。そういうときに、ふと羨ましくなることもありました。自分にはそんな自由、どこを探してもありませんでしたからね。でも、そこで落ち込んでいる暇はありませんでした。『これは自分が蒔いた種なんだから、何が何でも自分が責任を持って、がんばり通さなきゃいけないんだ』って、眠い目をさすりながら自分に言い聞かせて、やらなければいけないことを一つずつ必死にこなしていきました」

そんな頑張りが身を結んだのか、藤堂は大学院時代に複数の論文を出すことができ、27歳で無事に博士(薬学)の学位を取得した。その後、同じ研究室で2年間のポスドク生活を経て、藤堂はアメリカの大学への留学の切符を手にする。

「家族3人で渡米しました。あちらの生活は刺激的でしたが、何より大きなイベントは、アメリカ滞在中に次女が生まれたことです。長女と6歳離れての誕生でした」

藤堂が30歳、妻が38歳の時のことだ。異国の地での出産と育児は文字通り大騒ぎだったが、留学先の研究室のボスや仲間たち、さらには現地のコミュニティが温かく手を差し伸べてくれた。

「女の子二人に挟まれて暮らすアメリカ生活は、それはもう賑やかで、ほのぼのしたものでしたよ。週末になれば、娘たちを連れて大きな公園で泥だらけになって遊び、おままごとの相手をし、髪を結ぶ練習までさせられました。私の研究資料を、娘たちが面白がって落書きだらけにしてしまったのも、今では最高の宝物です。

アメリカに留学している間に、義両親も私の両親も、どちらも遊びにきてくれたんです。その頃には両親の怒りはもうどこかに消えていましたね。今では両親と妻の仲もよく、LINEやメールなんかでもちょくちょくやりとりをしています。でも、アメリカの食事はハイカロリーで、子供が残したものを食べていたら、私の体重は順調に右肩上がりになりました(笑)」

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アメリカで充実した毎日を送っていた藤堂は、研究の面でも成果を残した。ハイインパクトのジャーナルに論文を掲載することはできなかったが、手堅いデータでまとめた論文を複数発表することができた。そして、大学院時代の指導教授などのサポートもあり、30代半ばで地方の国立大学の「助教」としてのポストを得て帰国する。

「ようやく日本の地に足をつけて、自分のキャリアを本格的にスタートさせることができました。国立大の助教時代は、自分の実験だけでなく学生の指導も本格化して、毎日が本当に充実していましたね。娘たちも日本の学校にすんなり馴染んでくれて、家の中はいつも女の子たちの明るい笑い声で満ちていました」

その後も地道に論文を書き続け、薬物動態学の分野で確固たる業績を積み上げた藤堂は、40代前半で現在の地方私立大学の薬学部の「准教授」のポストを得る。そして数年前、前任の教授の退官に伴い、正式に「教授」の椅子を引き継いだ。

「私立大学に移籍してからは、学生たちの顔がより近くに見えるようになりました。私は、若い頃に結婚や育児、海外での生活など、いろんな『リアルな経験』をしてきました。だからこそ、国家試験の勉強や将来の進路、あるいはプライベートなことで悩む薬学部の学生たちの目線に合わせて、どこまでも親身に相談に乗ることができたんだと思います。

それに、この体型ですからね、学生たちも威圧感を覚えないのか、よくお菓子を持って人生相談に来るんですよ。私の研究室は、いつもアットホームな雰囲気です」

彼は、家族という温かな「重力」に支えられながら、アカデミアの世界を一段ずつ、確実に登り詰めてきたのだ。

***

昨今の日本のライフサイエンス業界を取り巻く環境は、目を覆いたくなるほどに荒廃している。

国策の失敗が生み出した大量のポスドク、ポストの激減、5年雇い止めの恐怖。かつて同じように最先端の科学を志した者たちの多くが、任期付きの椅子に縛られ、孤独と貧困の中でキャリアをすり減らされて消えていく。その閉塞感の中で、鬱病を患う者や、研究そのものを憎んで去っていく者の話は、今やアカデミアの日常茶飯事だ。

そんな凄惨な「生存競争」の中で、藤堂の存在は、ある種の特異点なのかもしれない。

もちろん、彼がここまで来られた背景には、周囲からのサポート、DC2の採択や留学、精度の高い実験を回せる確かな優秀さと「運」があったことは否めない。しかしそれ以上に、彼が過酷なアカデミアの荒波の中で破滅せずに生き抜けたのは、24歳という若さで「家族」という錨を下ろせたからではないだろうか。

自分の業績やプライドのためだけに生きる研究者は、ポストを失った瞬間にアイデンティティのすべてが崩壊してしまう。しかし藤堂には、論文が通らなくても、実験が失敗しても、家に帰れば「無邪気な笑顔を見せる娘たち」と「妻が作ってくれる温かい夕食」という、もう一つの絶対的な現実があった。科学という名の目に見えない概念に自らの魂を売り渡さず、生身の生活に踏み留まったことが、結果として彼をこの狂気の世界から救ったのかもしれない。

「今のバイオ業界や薬学の世界が、自分と同じ世代の人のみならず、若い人にとっても本当に厳しい場所だということは、私も日々痛感しています」

藤堂は、少し真面目な顔になってそう語った。

「私の周りでも、優秀なのにポストが得られずに苦しんでいる仲間が大勢います。だから、私のケースを『頑張れば報われる』なんて美談にするつもりは毛頭ありません。私はただただ、周りの人に恵まれて、運良く生き残らせてもらっただけですから」

そう言うと、藤堂はまたいつもの、少しお腹の出た、人の良さそうなおじさんの顔に戻って微笑んだ。

「そうそう、実は再来年、妻がちょうど還暦を迎えるんですよ」

嬉しそうに語る彼の丸い顔は、夕暮れ時の教授室の明かりに照らされて、じんわりと温かそうだった。

「24歳で結婚してから、留学先での苦労も含めて、彼女には本当に苦労をかけ通しでした。私のわがままにずっと付き合って、二人の娘を立派に育て上げてくれました。だからね、彼女が還暦を迎えたら、お祝いを兼ねて、久しぶりに夫婦二人で海外旅行にでも行こうかなって計画しているんです。娘たちももう大きくなりましたから、子供を置いて二人だけでね。でも、それまでには少しダイエットして、このお腹を引っ込めないと格好がつかないかなって思ったりしてます。まあ、それは研究よりも育児よりも難しい問題かもしれませんけど(笑)」

教授室の窓の外には、夕日に染まるキャンパスと、下校を急ぐ学生たちの賑やかな影が見える。

24歳のあの日に覚悟を決めたことで、藤堂は四半世紀の時を経て、何にも代えがたい「ささやかで、揺るぎない日常」という名の、最高の正解へと辿り着いたのではないだろうか。

*本連載は、著者が収集した多数の実例や証言を基に再構成したフィクションです。プライバシー保護および個人特定の防止のため、複数のエピソードを統合し、固有名詞の変更を含めた大幅な脚色を施しています。実在の特定の人物や組織を指すものではありません。


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