研究と恋愛〜ライフサイエンス研究者の幸福論
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第3回:海外ポスドク/男性/未婚/恋人との破局
辺りは暗く、ボストンの冬は容赦なく体温を奪っていく。
チャールズリバーから吹き付ける風に足元をすくわれそうになりながら、梶原拓海(38歳)は格安スーパー「Trader Joe's」のロゴが入った紙袋を抱え、薄暗いアパートへの坂道を登っていた。
袋の中身は、3.99ドルの冷凍ピザと、1ガロンの最安値の牛乳、そしてセールのバナナ。それだけだ。
「こっちに来た2023年は、まだ1ドル130円台とかだったんです。それが気づけば歴史的な円安になって、物価高騰も止まらない。日本からの奨学金でもらえる月額の手取りなんて、この街の家賃と最低限の食費で綺麗に消し飛びます。今じゃ、外でまともなハンバーガーとビールを頼むだけでも、チップを含めたら40ドル(約6,000円)を超えます。同僚と飲みにいくなんて贅沢、ここ1年やっていません」
アパートの自室は、ブラジル人の移民労働者と、インド人のITエンジニアとの3人シェアハウス。キッチンは常に誰かのスパイスの匂いがこびりつき、シャワーの湯は5分で水に変わる。これが、日本の旧帝大で博士号を取得し、分子生物学の分野で将来を嘱望された「若きエリート」の、38歳現在のリアルな生活水準である。
梶原がすべてを賭けてこの街に渡ったのは、3年前、35歳の春だった。
日本のアカデミアにおけるライフサイエンスのキャリア構築には、目に見えない、しかし絶対的な「出世の黄金ルート」が存在する。
日本の有名大学の大学院で学位を取り、国内で数年ポスドクをした後、アメリカの有名ラボへ留学して『Nature』や『Science』クラスのトップジャーナルに論文を通す。そして箔をつけて帰国し、日本の大学の助教や准教授の椅子に滑り込む。
このルートを通過する通行証を手に入れられなければ、どれだけ優秀であっても、アカデミアの出世双六からは事実上、脱落する。それがこの業界の暗黙のルールだ。
「渡米が決まったとき、周囲はみんな『おめでとう』と言ってくれました。僕自身も、これでようやく世界のトップランナーと肩を並べられる、歴史に名を残す研究ができるかもしれないと、胸を躍らせていました。あの時、成田空港で見送ってくれた彼女の涙の本当の意味に、気づこうともせずに」
***
渡米直前まで、梶原には3年間同棲していた恋人がいた。
都内の私立大学の事務職として働く、2歳年下の坂田真由である。
学生時代からの付き合いではなかった。30歳を迎えようとしていた頃、研究のストレスで自律神経を病みかけていた梶原が、息抜きに参加した趣味の社会人サークルで出会った女性だった。彼女は、梶原が「今日の実験は細胞が全滅した」と愚痴をこぼしても、深く問い詰めることなく、「大変だったね、お肉でも焼こうか」と笑ってくれる、柔らかい空気を持った人だった。
二人とも30代になり、お互いの親への挨拶こそ済ませていなかったものの、周囲からは「二人は結婚するだろう」と思われていた。
「でも、僕には結婚に踏み切れない理由があったんです。当時の僕の身分は単年度契約のポスドク。年収は400万もなかったし、翌年の雇用すら教授の科研費が当たるかどうかで決まる状態でした。そんな不安定な身分で、彼女の人生を背負う覚悟が持てなかった。だから、『アメリカへの留学枠が獲れた。これが終わって、日本で常勤のポストが獲れたら絶対に結婚しよう。だから2年だけ、待ってほしい』と言ってしまったんです」
真由は、静かに頷いた。
「拓海くんの人生にとって、研究がどれだけ大事か分かっているから。応援するよ」
2年。それは海外学振の任期であり、梶原が自分に課した「勝負の期間」だった。
だが、海外のラボでの研究は、日本のラボのやり方がそのまま通用するほど甘くはない。一流大学の有名ラボだからといって、常に洗練された研究のやり方がされているとも限らないのだ。
ボストンのラボに配属された初日、梶原は圧倒された。英語ネイティブのラボメンバーは全くおらず、聞こえてくるのは中国語・韓国語・スペイン語だけだった。しかも、個人に割り当てられたスペースはデスクスペースのみで、実験の場所は空いているところを適当に使うという有様だった。共用機器もみんな片付けず、実験を始めるには、まず片付けをしないといけない。
「なんだ、ここは。と正直思いました。でも、ボスは非常に賢くて、そんな適当なラボメンバーが出した怪しげなデータから綺麗な図と文章を作り出し、一流雑誌に次々と論文を出しているんです。だから、自分がきちんと実験をして出したデータなら、すぐに大きな論文が出ると思っていました」
***
ボストンと日本の時差は14時間。春から秋にかけてはサマータイムになるとはいえ、それでも時差は13時間もある。
梶原がラボに入り、死に物狂いでマウスの解剖をしている時間、日本は夜だ。
逆に、梶原が夜にヘトヘトになってアパートに帰り着いた時、日本は午前の仕事中である。
「最初の数ヶ月は、僕がラボに行く前に、毎日LINEやFaceTimeで話していました。でも、だんだん会話の中身がすれ違っていくんです」
真由が仕事の人間関係の悩みや、新しく買った家具の話をしてくれても、梶原の頭の半分は「今日の顕微鏡の予約枠が取れるか」「ボスの機嫌が悪い原因は、僕のデータが足りないからではないか」という不安で占められている。
「うん」「へえ、良かったね」
画面の向こうの梶原の生返事を、真由は見逃さなかった。
さらに追い打ちをかけたのが、アメリカの容赦ない「物価高」と「円安」のダブルパンチだった。
「本当は、1年目の冬に、彼女をボストンに観光がてら呼び寄せるつもりだったんです。でも、航空券は高騰し、現地のホテル代は1泊4万円、5万円が当たり前。僕の奨学金から家賃を引いた残高では、彼女の飛行機代すら出してあげられなかった。彼女は『自分で出すよ』と言ってくれましたが、自分のキャリアのために彼女を待たせている身で、経済的にまで甘えることは、男としてのプライドが許さなかった」
「お金がない」という事実は、人間の精神から余裕を恐ろしいスピードで削ぎ落としていく。
梶原は、真由への連絡を無意識に避けるようになっていった。「このタイミングで話をしても、愚痴かお金の話しかできない」と思ったからだ。
***
渡米して1年半が経った頃、梶原の研究は最悪の壁にぶち当たっていた。
仮説に基づき、1年かけて構築してきた遺伝子ノックアウトマウスの行動解析データが、対照群(コントロール)との間で有意差を示さなかったのだ。
ライフサイエンスの世界において、「有意差が出ない」ことは、その間の労働が「ゼロ(論文にできない)」になることを意味する。
ボスであるPI(研究室主宰者)は、典型的なアメリカ型の成果主義者だった。
「タクミ、今月の進捗はどうだ? このペースなら、次の更新(3年目の雇用延長)は難しいかもしれない。3年目は君の奨学金はないんだろう。うちのラボは人助けのためにポスドクに給与を出してるんじゃないんだ」
冷徹な宣告に、梶原の目の前が真っ暗になった。
日本に帰るポストもない。アメリカでの雇用も切られる。37歳にして、一瞬で「ただの無職」に転落する恐怖が、毎夜、梶原の胸を締め付けた。寝る前にベッドに入っても、心臓の動悸が止まらない。安いビールを睡眠導入剤がわりに使って、無理やり意識を失う日々が続いた。
そんなある日、真由から1通の長いLINEが届いた。
開くと、そこには1枚の写真が添付されていた。
都内のホテルのラウンジらしき場所で、真由が、見知らぬスーツ姿の男性と並んで微笑んでいる写真だった。
《拓海くん、驚かせてごめんなさい。これ、先月、親の勧めで断りきれなくて行った、お見合いの写真なの》
メッセージは続いた。
《拓海くんがボストンで、人生を賭けて頑張っているのは本当によく分かっているし、尊敬しています。でもね、東京にいる私は、もう35歳になりました。周りの友達はみんな子どもを産んで、家族の話をしている。私は、拓海くんの『2年だけ待って』という言葉を信じて待ってきたけれど、拓海くんの言う『2年』が、本当は3年になり、5年になり、もしかしたら一生日本に帰ってこられないかもしれないって、こっちのニュース(円安やポスドクの困窮)を見るたびに怖くなるの。
私の35歳の1年は、拓海くんの1年とは重みが違うの。もう、いつ終わるか分からない『待機』に、自分の人生を全部賭けるだけの体力も気力も、私には残っていません。
怒らないで読んでほしい。この前の日曜日、そのお見合い相手の人から『結婚を前提に付き合ってほしい』と言われました。大手メーカーの勤務で、東京から転勤はないそうです。私、その人と進んでみようと思います。今までありがとう》
梶原は、ボストンの冷え切ったラボのデスクで、その画面を凝視したまま、1時間以上身動きが取れなかった。
怒りは湧かなかった。ただ、底知れない無力感と、自嘲の念だけが胸を満たした。
「責められるわけがないですよね。彼女は僕の海外生活を、何の見返りもないまま、東京の片隅でじっと支えてくれたんです。対して僕は、彼女に指輪ひとつ買ってあげることもできず、異国の地で『自分の論文が出ない』『雇用がなくなるかもしれない』とパニックになり、彼女の孤独を無視し続けた。彼女の言う通り、女性の35歳の1年は、男のポスドクがラボで無駄にする1年とは、人生における価値が全く違うんです」
梶原は、震える指で《分かった。今まで引き留めていてごめん。幸せになってください》とだけ返し、スマートフォンをポケットに仕舞った。
その日の夜、彼はいつもより2時間長くラボに残り、有意差の出ないマウスの組織を、機械的にスライスし続けた。涙は出なかった。ただ、頭の中で「これでノイズが消えた。自分にはもう失うものがない」という、狂気的な思考が囁いていた。その思考そのものが、自分自身をひどく恐ろしく、哀しい生き物のように思わせた。
***
ライフサイエンス分野における「海外留学」というシステムは、若手研究者のパートナーシップを破壊する最大の地雷原である。
かつて、日本の科学がまだ豊かだった時代、あるいは1ドルが100円前後で安定していた時代であれば、既婚のポスドクが妻(あるいは夫)を伴って渡米し、現地で配偶者ビザ(J-2など)を使って共働きをしたり、あるいはポスドクの一馬力でも「家族でささやかな海外生活を楽しむ」ことが可能だった。
しかし現在、その牧歌的な時代は完全に終焉を迎えている。
「いま、アメリカの主要な研究都市(ボストン、サンフランシスコ、ニューヨークなど)の物価と家賃は、日本の感覚の3倍以上です。ポスドクの平均的な給与(年5万〜6万ドル前後)や日本の奨学金(多くても年500〜600万円程度)では、単身でシェアハウスに住むのがやっと。家族を養うなんて不可能です。配偶者を連れてきても、ビザの申請や就労許可の下りる遅さ、何より現地の保育園代が月30万円以上かかる現実に直面し、経済的に破綻するケースが後を絶ちません」
結果として、現在のライフサイエンス界が若手に要求するのは、「守るべき家族を持たず、私生活のコストが極限まで低く、24時間いつでもラボに駆けつけられる、独身の兵隊」というスペックとなる。
家族を日本に残して単身赴任すれば、時差と距離によって夫婦関係は冷え込み、離婚もしくは仮面夫婦へと向かう。かといって、恋人を日本に待たせれば、キャリアの不透明さゆえに「いつになったら結婚できるのか」という終わりのない拷問を相手に強いることになる。
「バイオの研究者は、30代前半という『人間として生活の基盤を固め、家族を作るべき最重要の時期』を、海外ポスドクという片道切符のサバイバルに費やさざるを得ない構造になっています。国は『国際競争力を高めるために若手は海外へ行け』と煽りますが、その結果、現地でどれほどの人間が精神を病み、家庭を壊し、人間らしい幸福をドブに捨てているか、日本のお偉い先生方やお役人たちは全く分かっていない」
***
それから1年半が経った。
かつて「有意差が出ない」と絶望していたテーマは、別のシグナル経路との合流を見出したことで劇的に展開し、先日、分子生物学分野のトップジャーナルの一つに梶原がファーストオーサーとしてアクセプト(掲載決定)された。
梶原の執念が実ったのか、あるいは偶然の女神が微笑んだのか、それとも・・・。
いずれにしろ、梶原はこれで次の任期(3年目以降)の雇用が確保できた。日本国内の大学の公募に応募しても、書類選考を通過する可能性が出てきた。研究者として、まだしばらくは「生存」できることが確定した。
しかし、その代償として失ったものは、あまりにも大きかった。
数日前、風の噂で、真由が予定通りあのメーカー勤務の男性と結婚し、昨年末に第一子を出産したという話を耳にした。
「心から『おめでとう』と言わなければいけないのに、どうしても胸の奥がチリチリと痛むんです。もし、僕が3年前に研究を捨てて、東京で普通のサラリーマンになっていたら、今頃、あの写真の男の代わりに、僕が彼女の隣で子供を抱いていたんじゃないかって。僕は、一報の論文と引き換えに、自分の人生のまっとうな未来を、大西洋に投げ捨ててしまったんじゃないかって」
深夜12時、シェアハウスの狭いベッドに横になり、梶原は天井を見つめる。その天井は、3年前に渡米したときと変わらない。
明日も朝8時にはラボに行き、次のプロジェクトのための細胞培養を始めなければならない。論文が1本出たからといって、安心できるのは数ヶ月だけだ。すぐに「次の論文」を追いかける日々が始まる。
手に入れたはずの『トップジャーナル掲載』という栄誉は、冷え切ったシェアハウスの部屋を1ミリも温めてはくれない。3.99ドルの冷凍ピザの味を変えてくれるわけでもない。
日本の科学界を支える「海外留学」という美名に隠された、個人の幸福の徹底的な搾取。
梶原拓海は、自らが掴み取った「成功」の重みに耐えかねるように、静かに、誰にも聞こえない溜息を吐いた。ボストンの長い冬は、まだ明ける気配すらない。
*本連載は、著者が収集した多数の実例や証言を基に再構成したフィクションです。プライバシー保護および個人特定の防止のため、複数のエピソードを統合し、固有名詞の変更を含めた大幅な脚色を施しています。実在の特定の人物や組織を指すものではありません。

