研究と恋愛〜ライフサイエンス研究者の幸福論
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第2回:特任助教/男性/未婚/婚約解消
日曜日の午後3時。
大阪・梅田の高級ホテルが見える某チェーン店で、藤井智也(35歳)は、目の前のコーヒーを一口飲んでから、古びたスマートフォンの画面を見せてくれた。
そこに表示されていたのは銀行口座の残高アプリ。「343,018円」。それが、博士号を取得し、国立大学で「助教」という肩書を持つ男の、全財産に近い数字だった。
「1年前、あそこのホテルの高級ラウンジで、当時の彼女のご両親との顔合わせをしたんです。コーヒーが一杯1800円もするんですよ。ここの10倍です。僕には味の違いは分からなかったんですけどね」
藤井は自嘲気味に笑い、細い指でコーヒーカップの縁をなぞった。
藤井の専門は、ライフサイエンスの基盤を支える「メタボローム解析」である。
がん細胞や代謝異常の組織から数百種類以上の代謝物を同時に抽出し、大型の質量分析計を駆使してデータを叩き出す。ラボでは「藤井にサンプルを渡せば、完璧なチャートが返ってくる」と重宝され、複数の共同研究を同時に回す、文字通りのキーマンだ。
だが、大学の組織図における彼の位置は、驚くほど脆弱だった。
彼のポストは「特任助教」。
名前に「特任」とつくポストの多くは、教授が国や民間企業から獲得してきた「期間限定の外部資金(=プロジェクト予算)」から給与が支払われる。藤井の雇用契約書には、太字のフォントで冷徹にこう記されている。
契約期間:1年(双方の合意により更新の可能性あり。ただし、プロジェクト終了時はこの限りではない)。
「助教」という響きに、世間の一般人は「国立大学の先生なら安定している」という幻想を抱く。
だがその実態は、ボーナスなし、退職金なし、昇給なし。来年、ボスが予算を獲り損ねれば、その瞬間に路頭に迷う「高学歴派遣労働者」に過ぎない。その歪んだ現実が、30代半ばの男の「結婚」という人生最大のハードルに正面から激突した。
***
藤井が、大手IT企業で広報として働く奈緒さん(当時30歳)と出会ったのは、31歳の夏だった。
研究室とアパートの往復だけで30代を迎えた藤井が、「さすがにこのままでは人間として終わる」と一念発起して登録したマッチングアプリがきっかけだった。
「アプリの世界は、僕たち研究者にとって、別の意味で過酷な“評価システム”でした」
プロフィール欄の「年収」の選択肢。ライフサイエンスのポスドクや特任助教の多くは「400万円以上〜600万円未満」にチェックを入れざるを得ない。同じ30代前半の商社マンや外資系IT、メーカー勤務の男たちが「800万」「1000万」と掲げる中で、藤井のスペックは完全に埋没した。
それでも、奈緒さんは藤井の「博士」という肩書と、物静かで誠実な語り口に興味を持ってくれた。
デートを重ね、彼女のマンションで手料理を振る舞われるようになったとき、藤井は生まれて初めて「研究室の外にある、まっとうな人間の幸福」に触れた気がしたという。
交際から3年。奈緒さんが33歳を迎えた春、彼女は「そろそろ、私たちの将来のことも考えたいな」と切り出した。
「嬉しかったですよ。僕なんかでいいのかと思いましたが、彼女と一緒に生きていきたいと心から思った。だから、奮発して給料2ヶ月分以上の指輪を買って、プロポーズしました。彼女は泣いて喜んでくれたんです。あのときが僕の人生のピークでした」
不穏な影が差し始めたのは、ホテルのラウンジで奈緒さんの両親との顔合わせをした秋のことだった。
***
奈緒さんの父親は、地方都市で建設業を営む、堅実そのものの人物だった。
大阪・梅田の高級ホテルのラウンジは、見合いやカップル、家族連れの華やかな談笑で満たされていた。挨拶の席で、奈緒さんの父親は藤井の「国立大学の助教」という名刺を嬉しそうに眺め、「いやあ、智也くん、優秀なんだね。娘にはもったいないくらいだ」と目を細めていた。
しかし、具体的な生活設計の話になった瞬間、和やかな空気は一変した。
「それで、智也くん。今の大学には、定年まで勤め上げる形なのかな? 家のローンを組むなら、勤続年数や身分の安定が大事になってくるが」
藤井は嘘をつけなかった。サイエンティストとしての習性が、事実に誠実であることを求めてしまった。
「いえ、私の現在のポストは『特任助教』と言いまして、単年度契約の任期付きです。現在のプロジェクトの予算が残り1年半ですので、基本的には再来年の3月に雇用契約が満了となります」
父親のコーヒーカップを持つ手が、ピタリと止まった。
「満了? つまり、再来年の春からはどうなるんだね?」
「その時の他大学や研究機関の公募状況によります。新しいポストを勝ち取れれば移籍します。ただ、バイオ系の常勤ポストは非常に倍率が高いため、時期によっては一時的にポスドクに戻るか、あるいは・・・」
「あるいは、無職になる可能性もある、ということか?」
父親の声から、先ほどの温厚さは完全に消えていた。
隣で奈緒さんが青ざめていくのが分かった。藤井は額に汗を浮かべながら、「ですが、現在の私の業績であれば、次のポストが見つかる可能性は高いと考えています」と付け足した。
しかし、ビジネスの最前線で生きてきた父親にとって、藤井の言葉は「ただのギャンブル」にしか聞こえなかった。
「智也くん、君がどれだけ頭が良いかは分かった。しかしね、30半ばの男が『再来年クビになるかもしれない、次の職場は全国どこになるか分からない』という状態で、どうやって私の娘を幸せにするんだ? 職を失ったら家賃はどうする? 子どもが生まれたらどう育てるんだ? 国立大学の先生といえば聞こえはいいが、中身はただの“季節労働者”じゃないか。そんな不安定な男に、大事な娘の人生を預けるわけにはいかない」
その夜の帰り道、梅田の歩道橋の上で奈緒さんは泣いていた。
「智也くん、お願いだから、普通のサラリーマンになってくれない? 製薬会社とか民間企業なら、もっと安定してお給料ももらえるんでしょ? どうしてそんなに“大学”にこだわるの?」
藤井の胸の奥で、何かがパキリと折れる音がした。
***
「製薬会社に就職する、というのは、一般の人から見れば当然の解決策ですよね」
藤井は、冷え切ったコーヒーを見つめながら、当時の苦渋を語る。
「でも、ライフサイエンス業界でアカデミアにいる35歳の研究者にとっては、民間企業への転職はそんなに甘くありません。企業が求めるのは『会社の利益に直結する開発力』であって、僕たちのような『基礎研究のスペシャリスト』ではない。35歳で企業未経験として応募しても、書類で落とされるのがオチです。何より、僕が20代のすべてを注ぎ込み、親に何百万円もの学費を払ってもらって手に入れた『メタボローム解析の技術』と『サイエンスへの情熱』を、ここで全部捨てろと言われているような気がして、どうしても耐えられなかった」
大学側は、藤井のような優秀な「使い捨ての頭脳」を、実質的なシステム維持の道具として搾取している。
大型プロジェクトを動かすためには、質量分析計を回し、データを解析する熟練の「職人」が必要だ。しかし、教授層や大学上層部は、彼らを常勤として雇う予算を出し渋る。数年でプロジェクトが終われば、用済みとして放り出せる「特任」だからこそ、都合が良いのだ。
「僕たちは、日本の科学技術の発展のために、最も効率的に買い叩かれている“高学歴パーツ”なんです。どれだけ論文に貢献しても、クレジットカードの審査すら通りにくい。結婚の市場(アプリや親の目)に出た瞬間、私たちの市場価値は『来年無職になるかもしれないリスク因子』として最低ランクに格下げされる」
奈緒さんとの話し合いは平行線をたどった。
彼女は藤井を愛していたが、それ以上に「35歳からの見えない未来」への恐怖に耐えきれなかった。藤井もまた、彼女を繋ぎ止めるための「身分の保証」をどうしても提示できなかった。
「自分が彼女の人生を台無しにしてしまうかもしれない」という加害者意識と、「自分のキャリアを理解してもらえない」という被害者意識が、藤井の心を粉々に砕いてしまった。
婚約破棄を申し出たのは、藤井の方からだった。
「奈緒、ごめん。僕には、君の父親を安心させるだけの“普通の未来”を用意してあげられない。僕の隣にいると、君の人生までギャンブルになってしまう」
奈緒さんは引き留めなかった。ただ、一晩中声をあげて泣き、翌週、彼女の荷物は同棲していた部屋から消えた。
***
その日から1年が経った。
現在の藤井は、かつて奈緒さんと暮らした2LDKの部屋を引き払い、大学の近くの月5万円のワンルームマンションで暮らしている。
部屋には、ベッドと冷蔵庫、そして大量の専門書があるだけだ。
彼女のために買ったプロポーズの指輪は、質屋に入れる勇気も出ず、今もデスクの引き出しの奥で、論文の別刷りの下に眠っている。
「今は、共同研究の締め切りが重なっていて、土日もずっとラボにいます。質量分析計から吐き出される何万行ものExcelのデータシートを見つめている時だけが、唯一、余計なことを考えずに済む時間です」
データは裏切らない。
サンプルの調製が正しければ、必ず予測通りのイオンピークを返してくれる。そこには、「年収」や「雇用形態」で人間を値踏みする、残酷な社会の格付けシステムは存在しない。
夜9時半。大学の実験室を出た藤井は、人気のない夜道を歩きながら、ふと夜空を見上げた。
「来年の3月で、このプロジェクトの予算が終わります。ボスからは『次の予算の申請はおそらく通る。だから、もう1年雇用を延長できると思う』と言われましたが、確実なことは何もありません。一応、海外でポスドク留学ができる場所が見つかりそうなので、来年は海外にいるかもしれません」
35歳。一般のサラリーマンであれば、中堅として部下を持ち、結婚してマイホームを建て、人生の黄金期を迎える年齢だ。
しかし、ライフサイエンスの特任助教・藤井智也の人生は、未だに「1年更新の砂の城」の上に浮かんだままだ。
彼はスマートフォンの画面を開き、マッチングアプリのアイコンを長押しして、消去した。
二度と、あのきらびやかな「普通の幸福」の市場へ迷い込んではいけない。生命の最小単位である代謝物を追い求める男は、自らの生活の最小単位すら維持できない不条理を噛み締めながら、次の実験の仕込みのために今日も大学へと向かった。
*本連載は、著者が収集した多数の実例や証言を基に再構成したフィクション(小説)です。プライバシー保護および個人特定の防止のため、複数のエピソードを統合し、固有名詞の変更を含めた大幅な脚色を施しています。実在の特定の人物や組織を指すものではありません。

