生成AIが書いたバイオ系短編小説集
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不確定要素 ―毒殺の方程式―
雨が車窓を叩く音が、夜の首都高速に低く響いていた。
ワイパーが規則正しくフロントガラスの滴を拭い去るたび、オレンジ色の街灯が湿った路面に滲んでは消える。運転席に座る男は、ハンドルを握る両手に少しだけ力を込めた。ダッシュボードのデジタル時計は、午前一時四十二分を示している。
上着のポケットの中で、スマートフォンが短い振動を返した。画面を見なくても、それが誰からの連絡かは分かっていた。男は信号待ちの間にチラリと画面に視線を落とした。表示されているのは、未登録の番号からのショートメッセージだ。
『話の続きだ。三十分後に例の場所で』
男は溜息をひとつ吐き出し、画面を消した。助手席のフロアマットの上には、黒いナイロン製のボストンバッグが置かれている。中身の重みが、車内の空気をわずかに沈ませているように感じられた。
信号が青に変わる。男はアクセルを踏み込み、雨の中に消えていった。
◇
警視庁捜査一課の久我(くが)は、取調室のパイプ椅子に深く背をもたれかけさせていた。目の前に置かれた紙コップのコーヒーは、すっかり冷め切って表面に薄い膜を張っている。
「久我さん、鑑識からの初期報告が出ました」
後輩の刑事である岸谷(きしたに)が、ドアを静かに開けて入ってきた。手に持ったクリアファイルには、数枚の事件概要シートが挟まれている。
「被害者は高木和也(たかぎかずや)、三十八歳。職業はフリーの科学ジャーナリスト。発見現場は世田谷区内の自宅マンション一室です。死因は急性心不全とみられますが、解剖に回されました」
「痕跡は?」
「部屋に荒らされた形跡はありません。ドアも施錠されていました。ただ、リビングのテーブルの上にグラスが二つ残されており、ひとつからは被害者の唾液反応、もうひとつからは微量のアルコールと……未知の有機化合物の痕跡が検出されています」
久我は目を細めた。「未知の有機化合物?」
「ええ。警察のデータベースにある毒物や既存の薬品のスペクトルパターンとは一致しないそうです。科捜研の技官が首をひねっていました」
「現場を見せろ。行くぞ」
◇
高木和也のマンションは、世田谷区の閑静な住宅街にある単身者向けの一室だった。玄関には鑑識のテープが張られたままになっている。久我は白い手袋をはめ、狭い玄関を上がった。
「思ったより物が多いな」
「フリーライターですからね。取材資料や書籍で足の踏み場もない」岸谷が答えた。
リビングのテーブルには、まだ二つのグラスが置かれたままになっていた。片方は空、もう片方には琥珀色の液体がわずかに残っている。その脇の棚には、空になった高級ウイスキーのボトルが三本、几帳面に並べられていた。
「酒好きだったようだな」
「管理人の話では、大きな仕事の前や緊張する用事の前には必ず一杯やる人だったそうです。今回もグラス一杯だけ、行儀よく飲んでから死んでいます」
久我はキッチンのゴミ箱を覗き込んだ。市販のビタミン剤の空き瓶が一つ、押し込まれている。中身は空だった。
「サプリメントも欠かさない、健康志向の男か」
久我はしゃがみ込み、リビングの床を見渡した。争った形跡はどこにもない。ドアの鍵もかかったままだった。誰かがここに押し入って毒を盛った、という単純な絵は描けない。
「岸谷。この部屋の状況、お前ならどう読む?」
「争いの跡がない以上、被害者は自分の意志でグラスを口にした、ということになります。誰かに脅されたり、無理やり飲まされたわけではない」
「つまり、犯人はこの部屋にいなかった可能性が高い、ということだ」
久我は立ち上がり、窓の外に目をやった。雨に濡れた住宅街が、街灯の光を鈍く反射している。
「高木というジャーナリストの周辺を探れ。特に、彼が最近追いかけていた取材テーマだ。フリーの科学ライターが殺されたとなると、売っていたのは文章じゃない。記事にできなかった『ネタ』の方だ」
「承知しました。それと……高木の携帯電話の通話履歴から、気になる人物が一人浮かび上がっています」
「誰だ」
「国立創薬生命科学研究所の首席研究員、神山隆司です。死亡推定時刻の直前、高木と数回にわたって通話していました」
久我の目が、鋭く光った。
◇
国立創薬生命科学研究所の白亜の建物は、郊外の広大な敷地に鎮座していた。セキュリティゲートをくぐり、研究棟の重厚な自動ドアを抜けると、特有の匂いが鼻をつく。有機溶媒と殺菌消毒液、そして冷たく乾燥した空気が混ざり合った、研究機関独特の匂いだ。
案内された研究室では、白衣を着た男が一人、ドラフト内(局所排気装置)で攪拌されているフラスコの液体を見つめていた。無色透明の液体の中で、撹拌子が滑らかに回転している。
「神山さん、お客様です」
後輩の研究員が声をかけてきた。男が振り向く。神山隆司、四十代半ば。落ち着いた物腰の中に、隙のない鋭さを感じさせる男だった。
「突然の訪問で申し訳ない。警視庁捜査一課の久我です」
久我は警察手帳を軽く示し、フラスコの中で回る液体に一瞬だけ目をやった。「綺麗なお薬を作っていらっしゃるんですな」
「ここは新しい抗がん剤の候補化合物を創出するための研究室です。綺麗に見えるかもしれませんが、作っているのは化学物質の塊ですよ」
神山は冷静に答え、ゴム手袋を外してゴミ箱に捨てた。
「神山先生、高木和也という人物をご存知ですね?」
久我のストレートな問いに、神山は微かに頷いた。
「ええ、知っています。科学系のジャーナリストで、当研究所の取り組みについても何度か取材を受けたことがあります。彼が何か?」
「昨夜、ご自宅で亡くなっているのが発見されました。他殺の可能性が高い」
神山は目を見開いた。
「高木さんが……? 一体どうして」
「それをお聞きしたいのはこちらです」久我は一歩踏み出した。「昨夜の午後十時過ぎ、あなたが高木さんに電話をかけておられますね。その後、ご自宅を訪問されたのではないですか?」
神山は静かに頭を振った。
「電話をしたのは事実です。彼から『以前取材した論文のデータについて確認したい』と連絡が入っていたので、その折り返しです。しかし、昨夜は深夜までここで一人で実験をしていました。防犯カメラの記録や入館ログを見ていただければ証明できます」
「アリバイ、ですか」久我はニヤリと笑った。「なるほど。完璧なデータをお持ちのようだ」
「研究者ですから。記録と根拠のない主張は信じない主義なんです」
久我はふと、実験台の脇に積まれた古い論文の束に目を留めた。表紙のタイトルがちらりと見える。「酵素応答性薬物送達システムの分子設計」――神山が十年近く前に発表した、若手時代の総説論文だった。
「先生のご専門は、抗がん剤の合成でしたよね。こういう……薬を体の中の特定の条件でだけ効かせる、みたいな研究もされていたんですか」
「ドラッグデリバリーシステムは薬学の基礎分野の一つです。特に珍しいものではありません」
神山は表情を変えずにそう答え、論文の束をさりげなくファイルの下に押し込んだ。久我はそれ以上は追及せず、軽く頷いただけで話を切り上げた。雨脚は衰える気配を見せず、研究棟の窓ガラスを打ち叩き続けていた。
「入館ログと防犯カメラ、ですか」久我は一拍置いてそう言うと、ポケットからタバコを取り出しかけた。だが、禁煙マークのプレートに気づいて引っ込めた。「確かに、そういう『デジタルな記録』は嘘をつかないと思われがちですな」
「思われがち、ではなく、事実です。捜査員の方ならご存知でしょうが、この『高度生命科学研究棟』はIDカードと指紋認証による厳重なアクセス管理がなされています。私が昨夜の午後八時から今朝の午前六時まで、一度もこの施設を出ていないことはシステム上に残っている」
神山は実験台の縁に手を置き、ごく自然な動作で姿勢を正した。
「高木さんとの通話は、午後十時十二分に行われました。通話時間は一分十四秒。彼が『論文の追加取材をしたいので今から会えないか』と言ってきたのに対し、私は『深夜の実験で手が離せないから無理だ』と断った。それがすべてです」
久我の隣でメモを取っていた岸谷が、少し戸惑ったように久我の顔を覗き込んだ。
「神山先生」久我は少し頭をかいた。「一つ教わっていいですかね。高木さんの部屋で見つかった謎の薬品ですがね。科捜研の連中が言うには、『構造式が複雑すぎて、既存のデータベースでは引っかからない』そうなんです。あんなものを個人で作ることなんて可能なんでしょうか?」
神山は眼鏡の位置を人差し指でわずかに直した。
「現代の有機合成化学のレベルをもってすれば、分子設計理論に基づき、自然界に存在しない新しい化合物を合成することは不可能ではありません。特に当研究所のような最先端の機器と原料が揃っていれば、知識と技術のある研究者なら、数日のうちに新規化合物を組み上げることができるでしょう。……それが毒性を持つかどうかは、また別の話ですが」
「つまり、先生のようなプロなら作れる、と」
「理論上の話です」神山は冷ややかに言い返した。「私にその動機がなければ、何の意味もない仮説ですね」
「動機、ねぇ……」久我は薄い唇を歪めて笑った。「フリーライターが殺されたとなると、動機はたいてい三つに絞られます。金か、女か、それとも『暴かれたくない秘密』か。先生、高木という男、最近この研究所の何を調べていたかご存知ですか?」
神山の眉が、ミリ単位で微かに動いた。
「さあ。彼の取材テーマまでは把握していません」
「彼が最後に出した記事のタイトルですよ。『夢の分子Target-X――抗がん剤開発の最前線』。神山先生、あなたがリーダーを務めるプロジェクトのことだ」
「それが何か?」
「高木のPCから、未発表の原稿ファイルが見つかったんです。タイトルは『虚飾の創薬:Target-Xにおけるデータ操作の全貌』。……なかなか刺激的なタイトルだと思いませんか?」
研究室の中の空気が、急激に冷却されたかのように凍りついた。
「……高木さんが何を妄想していたかは知りませんが、Target-Xのデータに捏造や操作など存在しません。我々の研究成果はすべて厳密な追試を経て論文に発表されています」
「でしょうね。先生のような完璧主義者なら、なおさらだ」久我は軽く肩をすくめた。「では、確認ですが、昨夜午後十時頃、先生はこの研究室内で『一人で』実験をされていた。間違いありませんね?」
「ええ。細胞培養液への化合物投与後のリアルタイムモニタリングを行っていました。数分おきにデータを取得する必要があるため、部屋を離れることは物理的に不可能です」
「わかりました。突然押しかけて失礼しましたな」
久我は深々と頭を下げると、くるりと背を向けた。岸谷は大慌てでそれに続き、神山に一礼して研究室を後にした。
◇
「久我さん、どうします? 神山のアリバイは完璧ですよ」
研究所の駐車場へ向かう傘の下で、岸谷が吐息を白くさせながら尋ねた。
「入館ログだけじゃない。監視カメラ映像も警備員が確認しましたが、昨夜の神山は一度も研究棟の外に出ていない。高木のマンションまでは車で片道四十分はかかります。どうひっくり返しても、午後十時前後に世田谷の現場にいることは不可能です」
久我は濡れたアスファルトを踏みしめながら、煙草の箱を取り出した。ライターの火を風からかばうようにして火をつける。紫煙が雨に溶けて消えていく。
「岸谷。お前は科学者という人種をどう思う?」
「え? ええと……頭が良くて、理屈っぽい人たちですかね」
「あいつらはな、『証明できないこと』は『存在しないこと』と同義だと考える。そして、自分たちの理論やデータに対して絶対の自信を持っている」
久我は煙を吐き出し、振り返って高くそびえる研究棟を見上げた。
「神山のアリバイは完璧だ。だが、完璧すぎるアリバイってのはな、得てして『作られた実験結果』と同じなんだよ。条件を整えれば、誰でも同じ現象を再現できる。……問題は、彼がどんな『装置』を使ってそのアリバイを組み立てたかだ」
「装置……? 現場にいたのは神山本人じゃない、ということですか?」
「高木の部屋にあったグラスだ。二つのグラスのうち、ひとつからは高木の唾液。もうひとつからは『未知の有機化合物』と微量のアルコール。神山が現場に行かずに高木にあのグラスの毒を飲ませたとしたら、どうやる?」
岸谷は首をひねった。「遠隔操作……? いや、毒を飲むように高木を誘導した? でも、高木だって警戒していたはずです。自分を強迫している相手から送られてきたものなんて飲みませんよ」
「だからこそ、高木が『自分から進んで飲む理由』があったはずだ」
久我の目が、鋭く光った。
「科捜研に連絡しろ。高木の部屋から押収した遺物の中に、『薬品の瓶』や『サプリメントの容器』がなかったか、もう一度洗わせろ。それと……神山隆司の過去を洗うぞ。彼がこの研究所に入る前、どんな研究をしていて、誰と関わっていたのか。根こそぎだ」
「はい!」
久我は吸い殻を携帯灰皿に押し込み、助手席に乗り込んだ。
「実験はまだ始まったばかりだ、神山先生」
久我は静かに呟き、車のエンジンをかけた。
***
翌朝、警視庁捜査一課の会議室には、重苦しい空気が漂っていた。
黒板には被害者・高木和也の顔写真を中心に、人間関係の相関図が書き連ねられている。その中で最も大きく丸で囲まれているのが、神山隆司の名だった。
「捜査三係からの報告です」岸谷が立ってホワイトボードを指し示した。「高木和也の銀行口座の動きを洗いました。半年前から毎月、定額の不審な振り込みが確認されています。振込元は個人口座ですが、名義人は『小暮由香(こぐれゆか)』。二十六歳の女性です」
「小暮由香……?」久我が身を乗り出した。「その名はどこかで見たな」
「はい。神山隆司が率いる『Target-X』開発チームの若手研究員です。二年前まで神山の研究室で博士研究員(ポスドク)として所属しており、現在は製薬会社の研究職に転職しています」
「神山の元部下か。なぜその女が高木に金を払っていた?」
「恐らく……高木に脅迫されていたのは、神山ではなく彼女の方です」
岸谷はファイルを一枚めくった。
「高木がPCに残していた未発表原稿『虚飾の創薬』のメタデータを解析したところ、原稿の初稿データにアクセスしていた内部アカウントのIDが、小暮由香のものと一致しました。高木は小暮から『Target-X』の実験データの初期ログを入手し、それをネタに彼女を強迫していたとみられます」
「もう一つ、気になる報告が」岸谷は別の資料を取り出した。「神山の学生時代からの経歴を洗ったところ、大学院時代の彼のもう一つの専門テーマが出てきました。『体内の特定酵素の存在下でのみ薬効を発現する分子設計』――学会では『プロドラッグ』と呼ばれる分野だそうです」
久我は先ほど研究室で目にした、古い論文の表紙を思い出した。
「データ操作を行ったのは、神山ではなく小暮由香だったということか」久我は顎を擦った。「なるほどな。神山は自分のプロジェクトを守るためではなく、かつての部下である彼女を庇うために高木を消した……?」
「小暮由香の線はどうだ。事件当夜のアリバイは?」
「彼女は事件当夜、都内の自宅マンションにおり、コンビニの防犯カメラ等でアリバイが証明されています。犯行は不可能です」
「ならばやはり、犯行を行える知識と技術を持っていたのは神山隆司一人……」
その時、会議室のドアが勢いよく開いた。科捜研の技官が、息を切らせて駆け込んできた。
「久我さん! 例の『未知の有機化合物』の構造解析、新たな発見がありました!」
「何が出た」
技官は手に持ったスペクトルグラフの用紙をテーブルに広げた。
「まず結論から言います。この化合物、単体では無害です」
「無害? だが被害者は死んでいるんだぞ」
「ええ、ここからが厄介なんです。体内に入った直後は『ただの無害なアミノ酸誘導体』として振る舞う。ですが、血中の特定の酵素――『アルコール脱水素酵素』ですね、これと反応した瞬間だけ、分子構造が急速に組み替わります」
「酵素と反応した瞬間、というと?」久我が先を促した。
「酒を飲んだ瞬間、ということです」技官は一拍置いて言った。「強烈な心臓毒性を発揮するカスケード反応が、そこで初めて起動する。つまりこの化合物単体では毒ではありません。水で飲んでも何も起きない。ですが『お酒と一緒に摂取した瞬間にだけ、体内で毒へと変化する』……そういう極めて精巧な『プロドラッグ型分子スイッチ』なんです」
会議室にどよめきが広がった。
「酒と混ざると毒になる……だから高木のグラスには、微量のアルコールとこの化合物が残っていたのか」岸谷が息をのんだ。
「それだけじゃありません」技官はもう一枚、別のグラフを机に置いた。「この分子、毒に変換された後は数時間で完全に加水分解されます。通常の代謝物として尿や汗から排出されてしまう」
「消えてしまう、ということか」
「はい。解剖が半日遅れていたら、死因は『原因不明の心不全』として処理され、毒物反応すら検出されなかったはずです」
久我は机を叩いて立ち上がった。
「時間の経過とともに消える毒……そして、酒を飲まなければ発動しない毒。これなら、事前に被害者に毒を渡しておき、被害者が自分のタイミングで酒を飲んだ瞬間に殺害することができる!」
「しかし久我さん」岸谷が待ったをかけた。「高木はどうやってその薬品を手に入れたんです? 神山から直接渡されたとしたら、警戒するはずですが……」
「高木は胃薬やサプリメントを常用していなかったか?」
「あ……!」岸谷はハッとした。「高木の部屋のゴミ箱から、市販のビタミン剤の空き瓶が押収されています。中身は空でした」
「神山は、高木が日常的に飲んでいるサプリメントのカプセルの中身を、あらかじめこの『未知の化合物』に入れ替えておいたんだ。高木は自分が健康のために飲んでいるサプリだと思い込んで口にし、その後、晩酌として酒を飲んだ。その瞬間に、体内で毒が完成したんだよ!」
「なるほど……! これなら神山が事件当夜、研究室から一歩も出ずに高木を殺害できる!」岸谷の顔に興奮の色が浮かんだ。
しかし、久我の表情は晴れなかった。
「……いや、待て。まだ一つだけ解けない方程式がある」
「何ですか?」
「高木が『いつ酒を飲むか』を、神山はどうやってコントロールしたんだ?」
久我は腕を組み、仁王立ちになった。
「サプリメントを飲むタイミングと、酒を飲むタイミングがズレれば、毒は体内で完成せずに排出されるか、あるいは別の場所で倒れて病院に運ばれるリスクがある。神山のような完璧主義者が、そんな不確定な運任せのトリックを使うか?」
久我は不意に、高木の部屋で見た光景を思い出した。棚に並んでいた三本の空きボトル。管理人の証言――『大きな仕事の前や、緊張する用事の前には必ず一杯やる人だった』。
「……いや、運任せじゃない。神山は、高木が『昨夜の午後十時過ぎに、部屋で酒を飲む』ことを確実に知っていた……いや、そう仕向けたんだ」
久我は昨夜の神山との会話を思い返した。
『高木さんから電話が入っていたので、その折り返しです』
『深夜の実験で手が離せないから無理だと断った』
「あの電話だ……」久我の目がギラリと光った。「午後十時十二分の一分十四秒の通話。あれが、殺人の『起爆スイッチ』だったんだ!」
「起爆スイッチ、ですか」
「高木という男は、大きな仕事の前には酒で緊張をほぐす癖があった。神山があの電話で、高木にとって『人生最大のスクープが手に入る』ような話を持ちかけたとしたら……高木はその夜、間違いなく酒に手を伸ばす」
岸谷は息を呑んだ。「証拠は……」
「証拠なら、これから作る」久我は立ち上がり、コートを羽織った。「行くぞ、岸谷。神山隆司の自宅だ」
***
雨が上がり、湿った夜風が世田谷の住宅街を吹き抜けていた。
神山の書斎は、まるで実験室のように無駄なものが一切置かれていなかった。壁一面の書棚には洋書の専門書や学術誌が几帳面に並び、デスクの上には論文の束と黒い万年筆が一本だけ置かれている。
書斎のドアベルが鳴ったとき、神山は一人、机に向かっていた。ドアスコープを覗くまでもない。そこに立っているのが誰であるかは、分かっていた。
ドアを開けると、そこには濡れたトレンチコートを着た久我と、緊張した面持ちの岸谷が立っていた。
「夜分遅くに申し訳ない、神山先生」
久我は煙草の匂いを漂わせながら、静かに、だが確信に満ちた目で神山を見つめた。
「先生の作られた『美しい数式』について、少し答え合わせをさせていただきたいのですが……上がってもよろしいですか?」
神山は微かに微笑み、ドアを大きく開いた。
「どうぞ、刑事さん。ですが、証明できない仮説は、ただの妄想に過ぎませんよ」
「ええ、重々承知しています」久我は靴を脱ぎながら言った。「だからこそ、完璧な証明を持ってきたんです」
二人の視線が、暗い廊下で激しく交錯した。
久我は差し出されたパイプ椅子にゆっくりと腰を下ろし、部屋の空気を味わうように深く息を吸い込んだ。
「静かな部屋だ。思考を巡らせるには格好の場所ですね、神山先生」
神山は久我の対面に座り、静かに両手を組んだ。
「お褒めいただき光栄です。それで、刑事さん。『完璧な証明』とおっしゃいましたね。どのような妄想を組み立てて来られたのですか」
「妄想、ねぇ」久我はニヤリと笑い、ポケットから一枚のスペクトルチャートのコピーを取り出して机の上に置いた。「科捜研の技官が泣いて喜んでいましたよ。高木さんの部屋に残されていた微量の化合物――あれは『プロドラッグ』と呼ばれるタイプの分子構造だそうですね。単体では無害なアミノ酸誘導体だが、体内でアルコールと出会った瞬間にだけ、強烈な心臓毒へと変貌する」
神山は眉ひとつ動かさず、チャートを一瞥した。
「興味深い化合物ですね。ですが、それが私とどう関係するのですか?」
「あなたは高木さんに『疲労回復のサプリメント』だと偽って、あの化合物のカプセルを日常的に飲ませていた。……だが、先生。このトリックには一つだけ、大きな欠陥(不確定要素)があった」
「欠陥?」神山が眼鏡の奥の目をわずかに細めた。
「『いつ、高木が酒を飲むか』という点ですよ」久我は身を乗り出した。「世田谷のマンションで、昨夜の午後十時過ぎというピンポイントなタイミングで彼に酒を飲ませる必要があった。……そこで使われたのが、あの電話だ」
久我はスマホを取り出し、画面に通話記録のメモを表示させた。
「昨夜午後十時十二分、あなたから高木にかかった一分十四秒の通話。『深夜十二時に研究室へ来れば、未発表の最新データを渡す』……あなたはそう言って高木を誘い出した。違いますか?」
神山は小さく鼻で笑った。
「くだらない。私が高木にそんな電話をしたという証拠がどこにあるのです?」
「会話内容そのものは証明できません」久我の目が冷たく光った。「ですが、『高木が電話の直後に何をしたか』なら証明できます」
「……何をしたか?」
「高木の部屋のゴミ箱から、あるもののゴミが見つかりました。高級なウイスキーのボトルキャップと、一口分だけ残ったミネラルウォーターのペットボトルです。そして、彼の胃内容物からは、極めて濃度の高いアルコールが検出された」
久我は指を一本立てた。
「高木という男は、極度の上がり性で、大きな仕事の前には必ず酒を口にして緊張をほぐす癖があった。彼の元妻や知人ライターから取った証言です。……先生、あなたは高木のその習性を知っていた」
神山の表情が、初めて微かに硬直した。
「あなたが『最新データを渡す』と持ちかけた瞬間、高木にとってそれは人生最大のスクープを手に入れる『勝負の時』になった。彼は歓喜し、研究室に向かう直前に、緊張を鎮めるために部屋でウイスキーを流し込んだ。そして――数分後、体内で劇薬が完成し、心臓が停止した」
部屋の中に、重苦しい沈黙が落ちた。
神山は組んでいた手をほどき、背もたれに深く体を預けた。
「……見事なプロットですね、久我刑事。ですが、やはりそれは『状況証拠の積み重ね』に過ぎない。私がその化合物を合成したという物理的証拠も、高木に渡したという証拠もない。私の研究室のドラフトから、その化合物の痕跡でも検出されましたか?」
「いいえ。あなたの研究室は完璧に洗浄されていました」久我はあっさりと認めた。「さすがはプロだ」
神山は薄く笑った。
「ならば、私の勝ちだ。科学において、証明できない仮説は存在しないことと同じです」
「そうかな」
久我はポケットから、小さな透明のジップロックを取り出した。中には、一連の鍵と、小さな金属製のUSBメモリが入っている。
「これは何です?」
「小暮由香さんの自宅アパートから押収したものです」
神山の顔から、血の気が引いていくのが分かった。
「小暮由香……? なぜ彼女が……」
「あなたが彼女を守ろうとしていたことは分かっていますよ」久我の声が低く、重くなった。「彼女は高木からデータ捏造の件で脅迫されていた。だが、彼女はあなたにすべてを打ち明けていたんだ。『神山先生、申し訳ありません。私が高木に脅されています』とな」
「……彼女は関係ない!」神山が初めて声を荒らげた。
「関係大ありですよ、神山先生」久我はUSBメモリを指で突いた。「彼女はね、あなたが自分を庇って高木に接触していることを知っていた。そして、あなたが恐ろしい計画を立てているのではないかと疑っていた。だから彼女は、あなたから手渡された『あるもの』を、警察に提出したんだ」
神山の目が大きく見開かれた。
「彼女の部屋のサプリメントケースから検出されたんですよ。高木に飲ませたものと全く同じ分子構造を持つ、未開封のカプセルがね」
神山は息を呑んだ。
「あなたが彼女に『疲れが取れるから飲みなさい』と言って渡したサプリメントだ。彼女はそれを飲まずに保管していた。科捜研が解析した結果、カプセル内からあなたの指紋と、高木の体内で毒に変わったあの化合物がそっくりそのまま検出されたんだよ」
「そんな……由香が……」
神山の手が微かに震え始めた。
「完璧な計算だったな、神山先生」久我は静かに語りかけた。「毒の分子構造も、アリバイの構築も、高木の心理を誘導するロジックも、すべて美しく噛み合っていた。だが……あなたという完璧な理系の人間が唯一計算に入れられなかった『不確定要素』があった」
久我はまっすぐに神山を見つめた。
「それは、『自分を庇おうとしてくれている恩師を、これ以上罪に落としたくない』という、小暮由香の人間らしい良心と苦悩だ」
神山の指から万年筆がこぼれ落ち、フローリングの床にカランと軽い音を立てて転がった。
「……私の……負けですね」
神山は両手をゆっくりと差し出した。その手は、もう震えていなかった。
「論理(ロジック)の限界を認めざるを得ない。……お話しします。すべてを」
***
神山は両手を膝の上に置いたまま、しばらく天井を見上げていた。それから、堰を切ったように語り始めた。
「五年前、小暮由香という学生が私の研究室に入ってきました。圧倒的な直感力と、有機合成に対する純粋な情熱を持った子でした。私が十数年かけて積み上げてきた知識を、彼女はわずか数ヶ月で吸収し、新たなアイデアを次々と生み出していった。『Target-X』の基礎となる分子構造を発見したのも、実質的には彼女です」
久我は黙って聞いていた。
「だが、アカデミアの現実は過酷だ。若手研究者に対するポストの削減、短期的な成果を求める研究費の分配システム。追い詰められた彼女は、実験データのわずかなバラツキを『理想的なグラフ』に見せるため、統計処理の段階でデータを微修正してしまった。研究者としては、決して許されない過ちです。しかしその修正がなくとも、いずれ『Target-X』が本物の成果を生み出すことを、私は知っていた」
「それを高木が嗅ぎつけた」
「ええ。高木は由香を脅迫し、金を要求し続けた。一ヶ月前、私は高木と直接会いました。『小暮から手を引け。望むなら、私が代わりになろう』と持ちかけた。すると彼はこう言った。『あんたが隠している最新の未発表データをよこせ。そうじゃなきゃ、由香ちゃんの捏造をスクープとしてぶちまける』とね」
神山の声が、わずかに低くなった。
「その瞬間、私の中で何かが静かに途切れました。この男は、科学の価値も、一人の若い才能が未来にもたらす可能性も、何一つ理解していない。ただ自分の利益のために踏みにじる」
「それで、あの化合物を?」
「私は高木に、『特別な強壮サプリメント』だと偽って、自ら合成した化合物を込めたカプセルを渡しました。『集中力と代謝を高める新規化合物だ。取材の疲労に効く』と。彼は疑うことなく、日常的に摂取し始めた」
「そして昨夜、あの電話をかけた」
「ええ。『最新データをお渡しする用意ができました。今日の深夜十二時に、私の研究室まで来てください』と。高木は歓喜したはずだ。深夜のドライブに備えて気分を高揚させ……習慣として、緊張をほぐすために酒を口にする。それが分かっていた」
「……彼女は、泣いていましたか」
久我は頷いた。「『自分がデータ捏造なんて愚かなことをしなければ、神山先生の手を汚させずに済んだのに』と、自分を責め続けています」
神山は自嘲気味に笑った。
「バカな子だ。捏造をしたのは彼女の弱さだが……それを追及して彼女の未来を奪おうとした高木は、絶対の『悪』だった」
「だから、あなたが裁いたと?」
「裁いたのではありません。駆除したのです」
神山は一度言葉を切り、静かに続けた。
「言うなれば、私は外科医だったんです。腐った部分を切り取っただけだ。それ以上でも、それ以下でもありません」
神山はデスクの上の万年筆を手に取り、愛おしそうに指先でなぞった。
「刑事さん。あなたには分からないかもしれないが、科学の世界において『真の才能』に出会える確率は、何百回実験を繰り返して一つの結晶を得るよりも低い。小暮由香という若い研究者は、その稀有な才能を持っていた。彼女が創り出した『Target-X』の基本骨格は、将来、何万人ものがん患者の命を救う可能性を秘めているんだ」
「しかし、この社会は過酷だ」神山は続けた。「若手に十分な資金もポストも与えず、目先の成果ばかりを要求する。追い詰められた彼女は、統計データのわずかなノイズを消すという過ちを犯した。……だが、それは『本質』を揺るがす捏造ではなかった」
「だからといって、不正は不正だ」
「ええ、学術的にはそうです。だが、高木のようなハイエナがそれを嗅ぎつけ、世間にぶちまければどうなる? 彼女の論文は撤回され、研究者生命は永遠に絶たれる。『Target-X』の開発は凍結され、救われるはずだった未来の患者たちの命が消える」
神山は拳でデスクを叩いた。乾いた音が部屋に響き渡る。
「私はね、刑事さん。自分の人生などどうでもよかった。研究者としての名声も、地位も、とうに捨てている。だが……彼女の才能と、『Target-X』という科学の光だけは、絶対に守らなければならなかったんだ」
久我は静かに立ち上がり、トレンチコートのポケットに手を突っ込んだ。
「神山先生。あなたが守ろうとした彼女は今、自分があなたを人殺しにしてしまったという絶望の中で息をしている。……それが、あなたの望んだ結果なのか?」
神山は言葉を失った。
「どれほど完璧な分子構造を作り上げても、人間の心まで思い通りにはならない。それを見誤ったことが、あなたの唯一の計算違いだったんだ」
神山はゆっくりと目を閉じ、それから静かに頷いた。
窓の外では、いつの間にか雲の切れ間から冷たい月光が差し込んでいた。
***
数ヶ月後。
東京地方裁判所の第一法廷は、異様な熱気に包まれていた。「国立研究所における高学歴研究者による前代未聞の毒殺事件」として、メディアは大々的に報じていた。
被告人席に座る神山隆司は、黒のスーツに身を包み、終始穏やかな表情で検察官の論告求刑を聞いていた。
「……被告人はその卓越した薬学の知識を悪用し、極めて精巧かつ冷酷な方法で被害者を殺害した。その計画性は周到であり、反省の態度も見られない。懲役十五年を求刑する」
神山は不服を申し立てることもなく、静かに深く頭を下げた。
傍聴席の最前列には、黒い喪服を着た小暮由香の姿があった。彼女は終廷後、警察官に連行されていく神山の背中に向かって、深々と頭を下げ続けた。その目からは、溢れ出る涙が止まらなかった。
神山は一瞬だけ足を止め、彼女の方を振り返った。そして、かつて研究室で見せていたような、穏やかで優しい笑みを一度だけ浮かべ、そのまま取調室への通路へと消えていった。
◇
事件が一段落したある日の夕方。
久我は警視庁の屋上で、沈みゆく夕日を眺めながら煙草を吸っていた。隣には、コーヒーカップを持った岸谷が立っている。
「久我さん。小暮由香さん、製薬会社を退職したそうですよ」
岸谷が寂しそうに言った。
「そうか」
「でも……彼女、別の小さなベンチャー企業で、また一から研究を始めるそうです。『神山先生が命をかけて守ろうとしてくれた研究を、絶対に途絶えさせたくない』って」
久我は紫煙を吐き出し、赤い茜色に染まるビル群を見つめた。
「ひとつの不正を暴いて芽を摘み取ることが正義なのか。それとも、罪を孕みながらも将来何万人を救う可能性を守ることが正義なのか」
久我は煙草の火を携帯灰皿で消し、ポケットに突っ込んだ。
「神山は自分を外科医だと言っていた。腐った部分を切り取ったつもりだったんだろうが……一番深く傷ついたのは、彼自身だったわけだ」
「悲しい事件でしたね」
「ああ」
久我は振り返り、警察庁舎の長い廊下へと歩き出した。答えの出ない方程式を、そのまま胸の内に仕舞い込むようにして。
薄暗い廊下に、久我の足音が静かに響き渡っていった。

