生成AIが書いたバイオ系短編小説集



生成AIが書いたバイオ系短編小説集

白先輩の受難

金曜日の午後五時。多くの社会人が「あと少しで週末だ」とそわそわし始める時間帯だが、明智(あけち)バイオテクノロジー研究所の博士研究員、高峰(たかみね)一輝にとって、それは新たなる戦いのゴングに過ぎなかった。

「高峰さん! 大変です! 3号培養槽の温度が、さっきから謎の上昇を続けてます!」

大学院生の高橋(たかはし)美咲が、髪を振り乱しながら実験室に飛び込んできた。彼女の目は完全に据わっている。

「なんだって? 菌体培養のスケールアップ中のやつか? 設定は37度のはずだろ」
 「それが、なぜか今42度を指していて……このままだと、私たちの三ヶ月分の努力が、ただの『ちょっと温かいドロドロのスープ』になります!」

高峰は頭を抱えた。彼が今手掛けているのは、ポリヒドロキシアルカン酸(PHA)合成酵素遺伝子を導入した、次世代バイオプラスチック生産用の組換え大腸菌「エコ・バチルス・タカミネ試作11号」の、ベンチトップ型ジャーファーメンター(通称・3号培養槽)でのスケールアップ培養だ。37度という設定は、大腸菌の増殖至適温度としてはごく標準的なものだが、逆に言えば5度も逸脱すればストレス応答遺伝子が一斉に発現し、目的のPHA合成経路どころではなくなる。来週月曜日には、出資元である大手化学メーカーの役員たちが直々に視察にやってくる。もしここで菌を全滅させれば、研究費は打ち切られ、高峰の首も物理的ではないにしろ、社会的に飛ぶ。

「落ち着け、高橋。まずヒーターの制御盤を確認しろ。センサーの接触不良か、PID制御が暴走してる可能性がある。僕がパネルをリセットする」

高峰が培養槽に駆け寄り、狂ったように点滅する液晶画面と格闘し始めたその時、彼のポケットの中でスマートフォンがけたたましく鳴り響いた。画面には【鬼頭(きとう)教授】の文字。この研究所の絶対君主であり、理不尽を具現化したような男だ。

嫌な予感しかしない。しかし、出ないわけにはいかない。

「はい、高峰です!」
 「あ、高峰くん? 今どこかね」
 「実験室です! 今、3号培養槽が熱暴走を起こしていまして――」
 「いや、そんなことより大変なことが起きた」

教授の声は、信じられないほど間抜けていて、同時に切迫していた。

「……そんなこと、とは何ですか? 教授、月曜日の視察がかかってるんですよ?」
 「わかっている。だがね、もっと人道的に、そして我がラボの存続に関わる危機なのだ。……白(しろ)が、逃げた」

高峰の手がピタリと止まった。
 「白……って、あの白ですか?」
 「そうだ。私が我が子のように溺愛している、純白の実験用ラット――ただし現在は正式に引退し、教授室で終生飼育されているペットの白先輩だ。今、ケージの掃除をしようとしたら、一瞬の隙を突いて脱走されてね。教授室のどこか、あるいは……廊下に出て行ったかもしれない」

白先輩。御年(ラット年齢で)かなりの高齢ながら、遺伝子改変系統の維持繁殖に長年貢献してきた個体で、実験動物としての役目を終えたのちも、なぜかラボ内では「先輩」と呼ばれ丁重に扱われている。人間の言葉を理解しているのではないかと噂されるほど知能が高く、そして何より、鬼頭教授の「お気に入り」である。

「教授、今すぐ探したいのは山々ですが、こっちの菌が死滅すると――」
 「高峰くん。菌はまたグリセロールストックから植え継げば増える。だが、白先輩の命は一つだ。もし彼が他の実験室に迷い込んで、不届きな学生に『あ、野良ネズミだ』とか言われて殺鼠剤でも撒かれたらどうする? それに、月曜日に来るメーカーの社長は、大の動物愛護家だ。私がラボでネズミを逃がしていると知れたら、動物実験の適正管理という観点からもコンプライアンス的に一発アウトだぞ」

理不尽の極みだった。自分の不手際を棚に上げて、何を言っているのか。
 しかし、教授の「予算を握っている者の権力」は絶対だ。

「……わかりました。高橋! 培養槽の設定温度を一旦下げて、冷却水循環を確認してくれ! 僕はちょっと……『白い重要参考人』を確保してくる!」
 「ええっ!? 先輩、私一人でこの暴走特急を止めろって言うんですか!?」

高橋の悲鳴を背に、高峰は廊下へと飛び出した。

***

廊下に出ると、異様な静けさが漂っていた。金曜の夕方、他の研究室の連中はとっくに帰るか、飲み会の準備をしている。
 高峰は四つん這いになり、床の隅を凝視しながら進んだ。

「白先輩……どこですか、先輩。美味しいヒマワリの種(滅菌済み)がありますよ……」

怪しすぎる動きで進んでいると、向こうから白衣を着た長身の男が歩いてきた。隣の「有機合成化学研究室」のホープ、通称「収率の鬼」こと織田(おだ)だ。

「おい、高峰。何やってるんだ? 床の菌でも採取してんのか?」
 「織田……! 違う、ネズミだ。教授のペットの白先輩が脱走したんだ。見なかったか?」
 「ネズミ? 見てないな。それより大変なんだよ、うちのボスがさっき『新しい不斉合成の配位子ができた!』って大騒ぎして、なぜかそれを記念して、いま実験室で秘蔵の高級松阪牛を焼き始めたんだ」
 「は? 実験室で焼肉?」
 「ああ。ドラフトチャンバーの中でな。排気バッチリだから臭わないとか言ってるけど、有機溶媒の臭いと牛脂の香りが混ざって、今うちのラボは『ディストピアの高級ステーキハウス』みたいになってる。お前も食いに来るか?」
 「行くわけないだろ! 局所排気装置は可燃性ガスや有害蒸気を吸うためのものであって、焼肉の煙突じゃない! 僕は菌の命とネズミの命を両肩に背負ってるんだ!」

その時、織田の背後のドアがわずかに開いた。
 そこから、信じられないほど丸々と太った、そして神々しいほどに真っ白な巨大ラットが、トコトコと姿を現した。

「あッ!!! 先輩!!!」

高峰が叫んだ。白先輩は、高峰と織田を一瞥すると、ふん、と鼻を鳴らした(ように見えた)。そして、織田の足元をすり抜け、なんと有機合成化学研究室の「ディストピア高級ステーキハウス」へと自ら進んで入っていったのだ。

「待て! 肉の匂いに釣られるな! そっちは劇物がたくさんある!」
 高峰は織田を突き飛ばすようにして、有機合成ラボへと突入した。

室内は、織田の言う通りだった。
 巨大なドラフトチャンバー(ガラス張りの排気装置)の中で、カセットコンロの上に置かれたフライパンがジュージューと音を立て、見事なサシの入った松阪牛が焼かれている。そしてその前で、有機合成の教授が「ガハハ! これぞ科学の勝利!」とビール片手に笑っていた。

白先輩の目的は、床に落ちた肉の破片だった。彼は器用に前足でそれを拾うと、凄まじい速度で口に運んだ。

「白先輩! ダメです、それは人間の、しかも研究費(おそらく違う名目で落とされたもの)で買った肉です!」

高峰が飛びついた瞬間、白先輩は驚異的なジャンプ力でそれをかわした。
 ドサッ! と高峰が床に倒れ込んだ衝撃で、近くの棚に置いてあった「黄色い粉末試薬」の瓶がグラリと揺れた。

「あ、危ない!」織田が叫ぶ。

瓶は落ち、蓋が外れ、中身の黄色い粉末が、ドラフトの前で焼かれていたフライパンの中にファサッと綺麗に舞い落ちた。

「……あ」

全員の動きが止まった。
 肉を焼いていた教授が、呆然とフライパンを見る。
 瓶に貼られたラベルには「OD-2026」の文字。三年がかりで開発した、アミノ基を複数持つ新規配位子の試作品だった。アミン化合物は一般に加熱により低分子の揮発性アミンを生じやすく、独特の刺激臭を放つ。しかもそこに、焦げた油脂由来のカルボニル化合物が加わったことで、メイラード反応の副生成物と混ざり合い、フライパンの中身は一瞬で紫がかった煙を上げ始めた。

「高峰……お前、何してくれたんだ……。それは我がラボが三年間かけて開発した、新規配位子『OD-2026』だぞ……。しかも、まだ安全性データも取ってない試作品だったのに……」
 「す、すみません! でも、そもそも実験室で肉を焼くのが」
 「ゲホッ、ゲホッ! なんだこの匂いは!?」

紫色の煙がドラフトの排気能力を超えて室内に充満し始めた。その匂いは、例えるなら「シナモンと、腐ったタマネギと、新品の消しゴムを同時に燃やしたような」筆舌に尽くしがたい異臭だった。

「うわああ! 目が、目が痛い!」
 「退避! 全員退避だ!」

大混乱の中、高峰は視界の端で、白先輩がちゃっかりもう一枚の肉をくわえて、換気口の隙間へと消えていくのを見た。

***

有機合成ラボから命からがら脱出した高峰と織田は、廊下で激しく咳き込んでいた。

「ゲホッ……最悪だ、高峰。お前のせいで、俺たちの配位子が……」
 「僕のせいじゃない、白先輩のせいです! いや、元はと言えばうちの教授が――」

そこへ、彼らのホームであるバイオラボから、高橋が涙目で走ってきた。

「高峰さん! 助けてください! 冷却水循環のバルブを開けたら、今度は温度がマイナス10度まで急降下して、大腸菌が凍結しかけてます! それに、なんか廊下がめちゃくちゃ臭いんですけど、何ですかこれ!?」
 「何だって!? マイナス10度!? グリセロールなどの凍結保護剤を添加していない培養液を凍らせたら、氷晶で細胞壁がズタズタになって全滅する!」

菌の危機、ネズミの逃走、そして隣のラボからの異臭テロ。
 高峰の脳内処理能力は完全に限界を迎えていた。

「高橋、まず培養槽のジャケット冷却を止めて、加温側に切り替えろ! それでも足りない分は、発泡スチロールの保冷箱に湯たんぽ代わりの使い捨てカイロと、ぬるま湯を入れたペットボトルを隙間なく詰めて、即席のウォーターバスを作れ! 温度計を差し込んで、絶対に直接カイロを容器に触れさせるな、局所的な過熱はもっと危険だ!」
 「そんなアナログな方法、聞いたことありません!」
 「背に腹は代えられない! 行け!」

高橋が再び実験室にダッシュで戻る。
 高峰も戻ろうとしたが、ふと、有機合成ラボから漏れ出た紫色の煙が、中央廊下の天井にある「空調の吸気口」へと吸い込まれていくのが見えた。

「……あっ」
 「どうした、高峰?」織田が涙目をこすりながら聞く。
 「織田。あの空調のダクトって……どこに繋がってる?」
 「どこって……この建物は増築を重ねてるから、3階から上の細胞培養クリーンルームだけは独立したHEPAフィルター系統になってるはずだが、地下から3階までは古い共有ダクトのままだ。クリーンルームの給気は別系統でも、その手前の共有区画を経由する排気ルートに、この臭気が回り込んだら……」

二人は顔を見合わせた。
 細胞培養クリーンルーム。そこは、最先端の再生医療研究が行われている、塵一つ許されない聖域だ。もしあそこに、この「シナモン腐敗タマネギ消しゴム臭」の謎の化学物質が流入したらどうなるか。フィルター自体は独立していても、共有区画の圧力バランスが崩れれば、逆流のリスクはゼロではない。

「止めないと……空調のメインスイッチを切らないと、共有区画の圧力バランスが崩れて、最悪クリーンルームにも影響が出るぞ!」

二人は全速力で地下の管理室へと向かった。

だが、世の中というものは、不運が重なるようにできている。
 地下へ続く階段を下りようとしたその時、正面から「カツ、カツ、カツ」と、やけに上品なハイヒールの音が響いてきた。

現れたのは、この研究所の副所長であり、安全衛生管理委員長でもある、冷徹無比な女性科学者、氷室(ひむろ)教授だった。彼女は手に見慣れたチェックシートを持っている。

「あら、高峰くんに、織田くん。ちょうどいいところに」
 氷室教授はフッと鼻を鳴らした。そして、その美しい眉をピキリとひそめた。
 「……何かしら、この信じられないほど不快な臭気は。有機溶媒の漏洩? それとも、またどちらかの研究室で不適切な廃棄物の処理が行われたのかしら?」

高峰と織田の背中に、冷や汗が文字通り滝のように流れた。
 「あ、いや、これは……その、ちょっと実験の副生成物がですね……」
 織田が言い訳をしようとした瞬間、氷室教授の視線が、彼らの足元に注がれた。

「キィ」と短い鳴き声。

いつの間にか、白先輩が高峰の足元に戻ってきていた。しかも、その口には、有機合成ラボでくわえてきた「松阪牛(生肉)」の残骸がしっかりと握られている。

氷室教授の目が、限界まで見開かれた。
 「……ネズミ。それも、実験用ケージに入っていない、野良の……いえ、その耳のタグは、鬼頭研究室の登録個体ね? なぜ、管理区域外に、げっ歯類が、しかも生の牛肉を貪りながら徘徊しているのかしら?」

「これは、その、高度な認知行動実験の一環でして!」高峰は咄嗟に大嘘をついた。「『高級食材に対する齧歯類の嗜好性と、それに伴う探索行動の相関関係』をフィールドワーク形式で――」
 「ふざけないで」

氷室教授の合理的な怒りが爆発した。
 「今すぐその動物を捕獲しなさい! そして、この異臭の元を突き止め、報告書を三部作成して、一時間以内に私のデスクに置きなさい。さもなければ、来週の外部視察は中止、あなたたちのラボは向こう三ヶ月、使用停止にします」

絶体絶命。
 だが、その時、白先輩が動いた。
 彼は氷室教授の「カツ、カツ」と鳴る高級なハイヒールに向かって、突進したのだ。正確には、ハイヒールのリボンに興味を示したらしい。

「きゃっ!? 来ないで、こっちに来ないで!」
 冷徹な氷室教授が、まさかの少女のような悲鳴を上げて飛び退いた。その拍子に、彼女が持っていた安全衛生チェックシートのバインダーが宙を舞い、高峰の顔面にクリーンヒットした。

「ぶふぉっ!」
 高峰がよろめき、地下管理室のドアに激突。その衝撃で、ドアの鍵がカチャリと開き、高峰はそのまま暗い地下室へと転がり落ちた。

***

地下室は、配管が複雑に張り巡らされた薄暗い空間だった。
 高峰が痛む鼻を押さえながら起き上がると、すぐ目の前に「空調系統コントロールパネル」があった。共有区画とクリーンルーム区画を仕切るダンパーの制御盤も、ここに集約されている。

「これだ! 共有区画の排気だけ止めれば、ひとまず煙の回り込みは防げる!」

高峰が該当区画の停止ボタンを押そうとした、その瞬間。
 暗闇から「シャーッ!」という、およそネズミとは思えない威嚇音が聞こえた。

コントロールパネルの真上に、白先輩が陣取っていた。彼は、先ほどの松阪牛をすでに完食したようで、ギラギラとした目を高峰に向けている。どうやら、この温かい配管の上がすっかり気に入ってしまい、誰にも渡したくないらしい。

「先輩、そこをどいてください。ボタンが押せません」
 白先輩は、前足を構えてボクシングのファイティングポーズをとった。完全にやる気だ。

「くそっ、こうなったら力づくだ!」
 高峰が手を伸ばした瞬間、白先輩は驚異的な俊敏さで高峰の白衣の袖を駆け上がった。
 「うわああっ! 冷たい! 爪が痛い! 暴れるな!」

高峰と一匹の高齢ラットが、地下の狭いスペースで激しい攻防を繰り広げる。その最中、高峰の白衣のポケットから、先ほど高橋に指示した際に、自分のポケットに一パックだけ残っていた「あるもの」がポロリと落ちた。

それは、使い捨てカイロ……ではなく、高峰が小腹を満たすために隠し持っていた、市販の「乾燥おしゃぶり昆布(梅味)」だった。

ポロッと床に落ちた昆布の袋。
 それを見た白先輩の動きが、ピタリと止まった。
 彼は高峰の肩から飛び降りると、袋の匂いをフンフンと嗅ぎ、驚くべき器用さで前足を使って袋を引き裂いた。そして、梅味の昆布を一枚、口に放り込んだ。

「あ……」

白先輩の目が、キラキラと輝いた。松阪牛を食べた時以上の、いや、これまでの彼のラット人生の中で最高峰とも言える、至高の表情(に見えた)。どうやら、この高齢ラットは、脂っこい肉よりも、グルタミン酸とイノシン酸が凝縮された和風の昆布、それも梅の酸味があるものが、ドストライクだったらしい。

白先輩は、むしゃむしゃと大人しく昆布を食べ始めた。完全に無力化された。

「……勝った」
 高峰は息を整え、ついに共有区画の排気停止ボタンを押し込んだ。
 ガコン、という重々しい音がして、ダンパーが閉じる振動が伝わった。これで最上階のクリーンルームへの影響は最小限に防げたはずだ。

そこへ、地上から織田と、なぜか疲れ果てた鬼頭教授が下りてきた。

「高峰くん! 白先輩は無事かね!?」
 「教授……見てください。先輩は今、僕の梅昆布に夢中ですが、無事です」
 「おお、おお、白よ! すまなかった、寂しかったろう!」
 教授は白先輩を抱き上げ、涙を流した。白先輩は「あ、昆布の袋は置いていけ」と言いたげに、高峰を指差していた。

「おい、高峰」織田が神妙な顔で言った。「空調を止めたのはお手柄だが、廊下の臭いはまだ消えてないぞ。氷室教授が上ですごい形相で仁王立ちしてる。報告書一時間以内なんて絶対無理だ。俺たちのラボ、本当に終わるぞ」

高峰は立ち上がった。梅昆布を齧る白先輩を見て、彼の脳内で、あるバイオの知識と、有機化学の知識が火花を散らして融合した。

「……待てよ。織田、お前たちの新配位子『OD-2026』の構造式、確かアミノ基を複数持つ多座配位子だったよな?」
 「え? ああ、そうだけど……それがどうした?」
 「うちの『エコ・バチルス・タカミネ11号』が作ってるPHAの前駆体は、3-ヒドロキシ酸のモノマー、つまりカルボキシ基を持つ酸性の有機物だ。今、高橋がウォーターバスで温めてる菌は、この数十分の急激な温度ストレスで、シャペロンタンパク質や分泌型の加水分解酵素を大量に発現しているはずだ。ストレス下の大腸菌は、細胞外に思わぬ酵素を漏出させることがある」
 「何が言いたいんだ?」

「アミンとカルボン酸を、酵素触媒で縮合させるんだ。お前たちの配位子が持つアミノ基と、うちの菌が作る酸性のモノマーを、菌の分泌酵素を使ってアミド結合で繋げば、揮発性のアミン臭を固定化しつつ、新しい共重合体――アミン修飾型バイオプラスチックが作れるかもしれない! もちろん、これは仮説だ。正式な構造解析は後で必要になるが、試す価値はある!」
 織田の目が、科学者としての輝きを取り戻した。
 「マジか……!? 理論上は、可能か? いや、配位子側の余ったアミノ基が、菌の酵素の基質になれば……!」

「やるぞ、織田! 科学の共同実験だ!」

***

二人は猛然とバイオラボに引き返した。
 実験室では、高橋が指示通り、発泡スチロールの保冷箱の中に湯たんぽ代わりのペットボトルと使い捨てカイロを敷き詰め、温度計を睨みながら必死に培養液の温度を戻そうとしていた。

「高峰さん! 戻ったんですか!? 菌は……なんとか26度くらいまで戻ってきました! ストレスで泡立ってますけど、生きてます!」
 「よくやった高橋! 織田、そのフライパンに残った『焦げた配位子のカス』を、この緩衝液に溶かせ! pHを中性付近に調整するのを忘れるな!」
 「おう!」

高峰は、凍結寸前でストレスMAX状態になり、通常より多くの分泌型酵素を放出していると思われる大腸菌の培養液をピペットで吸い取った。それを、織田が調整した「異臭の元」の緩衝液と、試験管の中でミックスする。

「頼む……反応してくれ!」

ボルテックスミキサーにかけ、常温で数分。
 最初は禍々しい紫色をしていた液体が、シュワシュワと音を立てて……徐々に「透明」へと変化していった。
 そして、あの地獄のような異臭も、少しずつ弱まっていった。代わりに、高橋が保冷箱に紛れ込ませていたハーブティーのティーバッグから、ほのかなカモミールの香りが漂った。

「弱くなってる……臭いが弱くなってます!」高橋が歓声を上げる。
 「いや、それだけじゃない」高峰は試験管の底に沈殿し始めた白い粉末を見つめた。「これ……もし本当に縮合反応が起きてるなら、環境に優しい、アミン修飾型のハイブリッド・バイオプラスチックになってる可能性がある……もちろん、NMRとGPCでちゃんと確認しないと断言はできないけどな」
 「まさか……」織田が絶句した。有機合成の力と、バイオの力が、偶然のトラブルによって、誰も狙って作ったことのない新素材の候補を生み出してしまったのかもしれない。

そこへ、ドカドカと足音がして、氷室教授がやってきた。彼女は手鼻にハンカチを当てていたが、実験室に入るなり、不思議そうに周囲を見回した。

「……あら? さっきよりずいぶんマシね。それどころか、なんだか良い香りもするわ。一体何が起きたの?」

高峰はビシッと白衣を翻し、完璧なビジネススマイル(研究者バージョン)を作って見せた。

「氷室副所長。これこそが、我が鬼頭研究室と、織田くんの有機合成研究室が水面下で進めていた、極秘の『環境クリーンアップ&次世代バイオ新素材開発プロジェクト』の初期実証です。先ほどの異臭は、あえて強力な悪臭物質を発生させ、それを我がラボの組換え大腸菌由来の酵素が『速やかに中和・ポリマー化』する実証デモンストレーションだったのです。もちろん、正式な構造解析はこれから行います」

織田も話を合わせた。「はい! 驚かせてすみません。すべては月曜日の視察で、メーカーの役員たちをあっと驚かせるための、ギリギリの実験だったのです!」

氷室教授は、二人の必死すぎる目と、実際に目の前にある「薄くなった臭気と沈殿した新素材候補」を見て、しばらく沈黙した。そして、ふっとため息をついた。

「……まぁいいわ。結果として安全基準は満たされているようだし、その新素材が本物なら、研究所の予算は跳ね上がるものね。報告書は、今回の共同開発の成果として、月曜日の朝までに提出しなさい。データの再現性もちゃんと取ること。……それと、鬼頭教授」
 氷室は、部屋の隅で白先輩を抱っこして小さくなっている教授を睨んだ。
 「そのネズミの管理だけは、厳重にすること。次に見つけたら、私が直々に『処置』しますから」
 「ひ、ひえっ……善処します!」

絶対君主であるはずの鬼頭教授が、一番小さくなっていた。

***

月曜日。
 化学メーカーの役員たちは、高峰たちのプレゼン――という名の、金曜日のドタバタ劇を綺麗にパッケージングし、なんとか週末のうちに再現性を確認した報告――を聞いて、大絶賛した。

「素晴らしい! 悪臭を価値あるプラスチックに変える、これぞまさに現代の錬金術だ!」
 「鬼頭教授、お見事な指導力ですな!」

鬼頭教授は「ガハハ! まぁ、私にかかればこれくらいは当然ですな!」と、すべての手柄を自分のものにする勢いで笑っていた。高峰と織田は、その背後で死んだ魚のような目で拍手を送っていた。

視察の最後、役員の社長が、教授の机の上で大人しく座っている白先輩(今日は特別に蝶ネクタイをつけられている)を見て、目を細めた。

「おお、この子は? 可愛いラットですな」
 「あ、はい、我がラボの『マスコット』であり、研究のインスピレーションの源です」と教授。
 社長が白先輩に手を差し伸べると、白先輩はフン、と愛想よくその手を舐めた。

「素晴らしい。動物を愛する研究室に、悪い人間はいません。よし、今回のプロジェクトには、当初の予定の倍の出資を約束しましょう!」

「ありがとうございます!!!」

ラボの全員が歓喜に沸いた。
 これで首は繋がった。研究費も潤沢だ。すべては丸く収まったのだ。

その日の夜、激動の数日間を終え、ようやく本当の意味での「解放感」を味わうべく飲み会へと向かうため、高峰は実験室の片付けをしていた。

「先輩、お疲れ様でした。本当に、色々ありましたね」
 高橋が、スッキリとした顔で言った。
 「ああ。でも、怪我の功名というか、新しいプラスチックの候補も見つかったし、結果オーライだな。僕はもう、一歩も動けないくらい疲れたよ。今夜は泥のように寝る」

高峰がカバンを持ち、培養槽の鍵を閉めようとした時。
 彼のポケットの中で、再びスマートフォンが震えた。

画面には【鬼頭教授】。

高峰の心臓が、嫌な跳ね方をした。恐る恐る、通話ボタンを押す。

「……はい、高峰です」
 「あ、高峰くん? いや、本当に申し訳ないんだがね」
 教授の声は、金曜日のあの時と、全く同じトーンだった。

「……何ですか、教授。まさか、また白先輩が?」
 「いや、白先輩は今、私の膝の上で、君がくれた梅昆布を美味しそうに食べている。それはいいんだ」
 「じゃあ、何ですか?」

「いやね……さっき、メーカーの社長さんが帰られた後、彼が『お土産に』って、超高級な『活(い)きたロブスター』を10匹、ラボの冷蔵庫に置いていってくれたんだよ。みんなで茹でて食えって」
 「はぁ、ありがたいですね」
 「それでね、ちょっと私が目を離した隙に……その、ロブスターのハサミを固定していたゴムが、一匹だけ外れてね。……今、3号実験室の暗闇の中に、ハサミがフリーになった巨大なロブスターが、一匹、潜伏しているんだ」

高峰の視線の先で、3号実験室のドアの隙間から、赤い、トゲトゲとした巨大な触角が、ゆらりと伸びてくるのが見えた。

「高峰くん? 聞こえてるかね? ロブスターは甲殻類だから、バイオの専門家である君なら、きっと素手で捕獲できると思って――」

高峰は無言で通話ボタンを切り、スマートフォンの電源を完全にオフにした。

「高橋」
 「はい?」
 「今すぐここを出るぞ。そして、今夜の飲み会は、カニ料理の店にしよう。甲殻類を、跡形もなく噛み砕くためにだ」
 「えっ? 先輩? ちょ、後ろから何かカサカサ聞こえますよ!?」

バイオ系研究者、高峰一輝の平穏な週末は、2026年もまだまだ遠そうだった。


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